Friday, June 14, 2013

人に内在する良心神(神言会)さまの最新記事


薩摩富士、耳に米を載せる開聞は神の声が響く意味なのか?

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私が霊界修行に入って間もない頃、大本教霊界物語にあります「丸に十字は弥勒の神の御紋章の定めなる」を考えていて、普通に考えれば○に十字は「薩摩」紋だろう。何故に薩摩紋が弥勒の神の御紋章に当たるのかと首を傾げていましたところ、ある光景が見えて来ました。それは薩摩の「開聞岳」です。別名薩摩富士。


その時に私が受けた言葉の疑問は、どうして門に耳の「聞」の字があるのかです。カイモンを考えれば通常は「開門」の漢字が使われるかと思います。開門であれば「門を開く」であり、神の国とか天国を開門させるにもつながります。
この薩摩開聞岳の開聞には「海門」の意味があるとも言われています。海を開く門です。そして開聞岳の側の池田湖には龍神伝説が存在します。だとすれば富士と龍宮(鳴門)を意味する地にも当てることが可能となります。
なのに、どうして聞こえて来るの「開聞」なのかです。

この「聞」の字には古字が存在します。

「𥹢」
です。
第4水準漢字なのでウインドウズXPだと文字化けするかも知れません。「ブン」と発音します。この漢字は調べても解説書はないようです。たぶん「米」の字は「八方」から聞こえて来る意味ではないかと思われます。
私は言葉の仕組みとして「米」教を説いて来ました。ここから来るのは人に内在する良心神の「ラ」神論です。それに対して大本教の出口王仁三郎聖師さんは、十三の「ス」神論を説かれました。ス神論だと「薩摩芋」の教えになってしまいます。


PCが漢字化けされた方は、「耳」の字の上に「米」の字が載っている文字と覚えてください。

私が言霊の師匠の元で修業している頃、その言霊の師匠が霊媒を通して霊に質問していると霊の方も受け答えをして来ます。ところが私に代わって私が詰問すると霊が言葉を発しなくなります。その理由を霊媒者に問いただしたところ、私が霊に詰問すると霊の頭上に大音声が鳴り響いて、まるで天から降って来る様なその声に殺されるかと霊達が恐れおののいて黙ってしまいます。貴方は霊に対して強く出ないでくださいと注意を受けてしまいました。
私自身、昭和五十五年。私の目は開いているにも関わらず何も見えない真っ暗闇に叩き込まれて、地獄の底から湧いて来ると思われる様な恐ろしい声を聞きました。真っ暗闇に落とされた恐ろしさよりも、声が持つ恐ろしさがどれほど恐怖かを体験している一人です。

数年前、自宅の神前で拝していましたところ、ある霊的な事物が見えて来たかと思うと、その霊的事物の存在が私の口の中に飛び込んだのです。すると、間もなくして私の左耳の聴覚が無くなってしまいました。左耳は何も聞こえない。
まずいことに5月のゴールデンウイークに入った時で、ここ一週間ほどは田舎町の耳鼻科はお休み。とりあえず補聴器でもと補聴器店で見て貰ったら、やはり左耳は聞こえていません。売られている補聴器はドイツ製で高価な代物。ここで何十万円も出してもと思い、そのままに帰宅しました。
突然、私に閃いてきたことは、これは大江の元伊勢の天の岩戸神社に参りに行けばよくなるでした。そこで大江の元伊勢に走り、天の岩戸神社の拝所に鎖で上がり、祝詞を奏上しても変化無し。おかしいなと思って、もう一度祝詞を奏上に入ったならば、左の耳にボーンと空気が入って鼓膜が動いたかと思うと耳が聞こえて来ます。その時に私の目に見えていたのは龍神でした。
左耳の聴力は半分程度は回復したようですが、そこから進みません。すると今度は伏見稲荷山の下社に参拝すれば回復すると閃いて、下社に参拝して祝詞を奏上すると同じく左耳にボーンと空気が走り、無事に元の聴力に戻ったしだいです。

私が修行に入った頃は、よく「天の岩戸」開けが語られていました。伊勢神宮から伊雑の宮に行く時、伊雑の宮の少し手前に「天の岩戸」神社と呼ばれる名所旧跡に当たるのでしょうか?。そうしたものがあります。ついでだからとその場所を見に行きまして、これならば大江(現在は福知山市大江町)の元伊勢にあります天の岩戸神社の方が遙かにいいなと思いました。

大江の元伊勢の天の岩戸神社と呼ばれている社。鎖で上がります。

 

この天の岩戸神社は・日室山とか岩戸山と呼ばれる山の下にあります。夏至の日にはこの岩戸山の頂上に太陽が沈みます。 この日室山・岩戸山はピラミッド状の山で貴重な植物が自生していることから京都府歴史的自然環境保全地域に指定されていて、立ち入り禁止です。この山が御神体で、奉拝所と呼ばれる場所からです。



岩戸神社の下の宮川(五十鈴川)。この少し先が産釜・産盥(さんだらい)と呼ばれていて、大本教開祖出口なおさんや出口王仁三郎聖師さんはそこの水を汲んで、水の御用をされています。



この天の岩戸神社には大きな岩がゴロゴロあり、それらの岩に名が付けられているのですが、天の岩戸と呼ばれる岩がありません。 この天の岩戸神社の由来書は天照大御神が石の上に天下ってお生まれになったで、岩穴にお隠れになったの記述がないわけです。しかし、天の岩戸神社の御祭神そのものは手力雄命なのです。



天の岩戸神社と称するならば岩戸がなければなりません。以前に私に大江の元伊勢から参って来る様にと霊声で言われて飛んで行ったところ、内宮では誰も出て来られず、此所に来て御神霊から天の岩戸とはどれか解るかと聞かれて、霊的に考えて、この岩のことですかと言った岩がこの岩。この岩の向こうに洞窟があって、それを蓋した様に霊的に見ようと思えば見えなくもないわけです。 
しかし、こんなものを持って天の岩戸開けなどと言うのではありませんよと、その時に並んでおられた神々には申し上げておきました。天の岩戸開けとは、宇宙規模で起きる出来事の予告だからです。 私自身は霊界の太陽を見ています。そうなりますと、天の岩戸開けとは別の意味合いで予告されたものだと解るからです。 

耳が聞こえて来ないには「聾」があります。霊的に見ていますと耳に「龍」が載るのです。 それによって聴力が阻害されます。龍が去れば聞こえて来ます。漢字は人間が造ったと思っていると間違えてしまう可能性があります。古代の人達は霊的なものが見えていたのでしょう。

開聞は、人類の上に神の声を響かせる意味なのでしょうか? 


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