最後の御詫びのコメントをいたしませんでした。この場で書かせていただきます。
曽ヶ端様、確かに「左脳を見捨てる」とか「疎かにする」などと
曽ヶ端様は書いておられません。
わたくしの捉え方が浅かったと思います。ていねいな御示唆に感謝いたします。
霊主体従。それを忘れておりました。霊的になるということは右脳人間であるということで
物質的であるということが左脳人間だと、そう考えるなら
物質社会から抜けての霊主体従世界であれば、右脳開発されていないなら人間のままなので
その世界では生きられないわけですね。
宇宙から恵みの治療光波が降ってきて、皆が霊主体従の光生命体へと
自然に進化できる時が到来すると信じています。
そんな光波を受け入れられる心を光にする。
思いやりや愛情や慈愛などを自内に育てることが、きっと一番にたいせつなのでしょう。
悩はそれに倣うと思えてきました。
心ができなければ、本当には右脳の進化は果せないような...そんな思いになりました。
そういう状態も顔に現れてくるのでしょうね。態度にも、そして使う言葉にも出て来る。
学歴がある無い、難しい言葉を使えるか使えないか、などではなく
” ボロは着てても〜心は錦〜 ” が光るのだ。でした。(笑い)
無人島に男ふたりと女ひとりが流れ着いた。さあどうする?
【フランス人の場合】 女は片方の男と結婚し、もう一人と不倫する。
【アメリカ人の場合】 女は片方の男と結婚し、離婚してから次の男と再婚する。
【ドイツ人の場合】 女と男ひとりが結婚し、残りの男が立会人を務める。
【スウェーデン人の場合】 男ふたりは愛し合い、女は自分を愛する。
【ロシア人の場合】 女は好きではない方の男と結婚し、そのことを一生嘆く。
【日本人の場合】 男ふたりは、どちらが女と結婚したらいいか、東京本社に問い合わせる。(笑)
> 実香道さん、こんにちは。
熱いコメントありがとうございました。
>•エゴの表出も恐れないで、まずは自己主張をさせる過程を容認する教育=話すのは生徒で先生は聞き役=自己を知るプロセスの1つ=生徒同士の議論=議論の後の反省/大きな視点への転換となる内観へとつながっていくプロセス。
そうですね。自分の理念・希望・志を養う上で、大切なことではないでしょうか?
>•決まった宿題は少しで良いから、学校生活などを通して、自分だけにある個性を育成するための内観や挑戦をしていただく。
今思いついたのですが、「ワクワクを大切にする教育」というのも、いいかもしれません。自分の内面から湧き上がる感情を大事にする教育です。
現在までの画一化教育では、このような感情を押し殺し、言われた通り、額面通りに作業を行なう「ロボット人間」を多数作ってきたと思います。言うことを聞かない場合は、即座に恫喝です。そこには、学ぶ楽しさがありません。これでは奴隷と何ら変わりがないということです。
>生活レベルはどんぐりの背比べの金持ちも貧乏も無い..
私の信条「人類平等、命に貴賎なし」の考えでいくと、生活レベルはほぼ一定となります。これは縄文時代のあり方を模範としています。しかし、人それぞれの役割は、天命に従ったものとなります。
現在は、左脳偏重の詰め込み教育ではありますが、これからは、右脳開発教育を採り入れるべきでしょうね。呼吸法とイメージング教育によって、直観力と感性を養うのです。結果、人の痛みも分かるようになり、イジメも減ることでしょう。(右脳開発教育は、故・七田眞氏が権威でした。)
次回の5月9日のブログで、人々の意識を「グレン」と引っくり返し、一気にミロクの世へと近づけたいと思っております。楽しみにしていて下さい!
曽ヶ端様
コメントに御つき合い頂いて、感謝いたします。
曽ヶ端様...
わたしは、どうしても左脳と右脳を分けてしまうことに嫌気がさしていて(すみません...)
右脳教育もブームにはなりましたが
宇宙が歩幅を狭めて地球に関与する今からは、人類の切断された12の遺伝子コードが蘇る希望に合わせた空想を楽しみたいと思っています。
右脳と左脳が1つになる。という空想も加えます。
間悩はまるで脳内宇宙の橋で、右脳と左脳が和して機能するように在る気がしますが。
左右のバランス=別々に働くのではなく同時に両方の善、良さを機能させられるなら=現実や他の苦労などを理解して分析して掌握しながら、
思いやりと共に新たな建設的で癒しを生む創造が実現していくと思いました。
こういう過程を経て、やがて右脳と左脳は1つに融合して、起源に授かった人の完全な悩宇宙へと還ることが可能だろうと思いました。
ですから間悩という橋を回復させるにも、第三の目と云われるチャクラの開きがたいせつになるのだろうと。
生命の樹のことは素人ですが、人の努力の1つとして、やはり人体の全てのチャクラを正しく開いていくことが、生命の幹を回復させるのに繋がると思えますし
人体電気といいますか、エネルギーの回線を詰まりなく機能させていけることになり、神の子としての人体が本当に生き返るための1つの修練/努力だと思えてなりません。
ここに正しい瞑想のありかたが問われます。朝日を額に浴びる、体に浴びるという天然瞑想が縄文時代のものであった幻想も湧いてきます。
左脳を見捨てる、または疎かにすることは、現実的に社会を観察する=自他の観察を冷静に行う=日常生活の営みをしっかりと実行することなどを捨てる運びへとつながる気がします。
左脳と右脳を一悩化する。言葉遊びでは一能生化となります(笑い)個々の内面の矛盾も葛藤も晴れると思えます。
統合は人類の悩=世界統合=宇宙丸ごと調和の中での統合=わたしの平和統合へのイメージ*プロセス
=宇宙神と人は1つであることの明かしではないかと...思っております。
人体は宇宙の写し。悩は心(真=神)と恊働する宇宙連合であるという子供じみた空想で、申し訳ありませんが、コメントの結びにいたします。
曽ヶ端様という、光の柱が体内に立った御方と通信させて頂ける喜びに震えます。
ありがたく思います。
5月9日を楽しみにしております。。。。。。ありがとうございます。
合掌
>左脳と右脳を一悩化する。
私としましても、現在の左脳偏重教育ではなく、左脳教育と右脳教育の両方を採り入れるべきであろうという考えです。左脳教育を見捨てるという考えはありません。両方のバランスが取れて始めて、間脳(第三の眼)が活性化するであろうという考えです。(これは自分の経験にもよります。)
しかし、どちらかというと、右脳(直感、感性)の方を重視する方向がベストであろうというニュアンスです。いわゆる「霊主体従」的な考え方であります。
[2013/05/08 11:25] | 曽ヶ端 #- |
曽ヶ端様、確かに「左脳を見捨てる」とか「疎かにする」などと
曽ヶ端様は書いておられません。
わたくしの捉え方が浅かったと思います。ていねいな御示唆に感謝いたします。
霊主体従。それを忘れておりました。霊的になるということは右脳人間であるということで
物質的であるということが左脳人間だと、そう考えるなら
物質社会から抜けての霊主体従世界であれば、右脳開発されていないなら人間のままなので
その世界では生きられないわけですね。
宇宙から恵みの治療光波が降ってきて、皆が霊主体従の光生命体へと
自然に進化できる時が到来すると信じています。
そんな光波を受け入れられる心を光にする。
思いやりや愛情や慈愛などを自内に育てることが、きっと一番にたいせつなのでしょう。
悩はそれに倣うと思えてきました。
心ができなければ、本当には右脳の進化は果せないような...そんな思いになりました。
そういう状態も顔に現れてくるのでしょうね。態度にも、そして使う言葉にも出て来る。
学歴がある無い、難しい言葉を使えるか使えないか、などではなく
” ボロは着てても〜心は錦〜 ” が光るのだ。でした。(笑い)
日本人記者がプーチン大統領に一蹴された理由
2013-05-06
本題に入る前に、まずはアメリカン・ジョークから。無人島に男ふたりと女ひとりが流れ着いた。さあどうする?
【フランス人の場合】 女は片方の男と結婚し、もう一人と不倫する。
【アメリカ人の場合】 女は片方の男と結婚し、離婚してから次の男と再婚する。
【ドイツ人の場合】 女と男ひとりが結婚し、残りの男が立会人を務める。
【スウェーデン人の場合】 男ふたりは愛し合い、女は自分を愛する。
【ロシア人の場合】 女は好きではない方の男と結婚し、そのことを一生嘆く。
【日本人の場合】 男ふたりは、どちらが女と結婚したらいいか、東京本社に問い合わせる。(笑)
このジョークは、現在の日本民族の本質を端的に表したジョークであると言えそうです。先日の日露共同記者会見の際、日本人記者に対してプーチン大統領が激怒した一幕を見て、このジョークを連想したのです。
この記者会見で何が起こったかについては、もう既に知っておられる方もいるかもしれませんが、詳しくは以下のサイトをご覧になって下さい。日露共同会見:☆プ-チンがブチキレたのは、TBS記者に対してではない! (『wantonのブログ』)
日本国内の感覚や価値観を海外に持ち込んでも、まず通用することはありません。多くの場合、相手にされずに終わるのがオチでしょう。なぜでしょうか?多くの日本人の根底には「思想」がないためです。
「思想がない」ということは、(社会に出ている一般的な)日本人には、長期的な視野に基づく「主義・主張・信条・理念」がないということです。私たちが住んでいるこの世界を、どのようにして素晴らしい世界へ導くかという「夢・志・自覚」がありません。(まぁ、一部ではこのような人々を「B層」とも呼んでいるそうですが。笑)
「無神論」の価値観を根底に持つ儒教の影響か、あるいは戦後始まった「唯物論的偏左教育」を引きずってのことでしょうが、私に言わせると、「いつまで占領政策やってるの?」ということなのです。多数派が無神論で凝り固まっている民族は、世界広しと言えども日本人だけではないでしょうか?(笑)
また、儒教の特徴である「お上絶対主義」が過ぎますと、甘えれば周囲が何とかしてくれるという「ごね得」を得ることしか考えないようになります。次第に、自分の頭で考えて行動を起こすことがなくなるため、「思考力」と「想像力」が奪われていくことになります。よって、相手の痛みを理解することができなくなるため、結果的に「他者への思いやり」が欠如し、イジメが横行することになるのです。
極論しますと、大抵の人は「他人を貶めてまでも、いかに自分だけはいい思いをするか」だけかもしれません。これは思想とは言いません。「陰謀」と言います。(笑)
もちろん、偏左教育を行なってきた社会が悪いと言えば悪いのですが、しかし一方で、これまでの風潮を信じ込んで実践してきた国民にも問題があったということです。
何でもかんでも上司の顔色を伺わなければならない文化というのは、いかがなものかと思います。これからは、自分の頭で考え、自分で責任を持ち、自分の裁量で判断する場面を多くするべきであると考えます。
すでに時代は「ミロクの世」に向けて変わりつつあります。「能力横並び主義」を改めましょう。すべての人の能力が同じであるわけがないのです。中には直感力に優れ、突出した能力を持つ人もいます。これからは、このような独創性溢れるユニークな人を前面に押し立てるべきです。そうしないと、これから始まるであろうボーダーレスの世界(国境のない世界)では全く相手にされないと思います。
あと、この国の悪弊である「官僚主義」もそろそろ改めましょう。私に言わせると、「いつまで官僚主義やってるの?」ということになるのです。「1400年前に大宝律令を制定して以来だ!」という屁理屈は、もはや通用しません。(笑)
現在の官僚は「唯物論者」が多いのではないでしょうか?今までのマスコミや学校教育のあり方を観れば、大方推測できるというものです。「唯物論者」が世界を救えるわけがありません。唯物論者には、天界からのインスピレーションとしての智慧を授かることはないのです。よって、できるのは他国の猿真似くらいになってしまうのです。これからは、声の大きさとペーパーテストだけを重視するのではなく、その人の人間性や感性の方を重視した文化へと移行していくべきだと思いますね。
日本国内の感覚や価値観を海外に持ち込んでも、まず通用することはありません。多くの場合、相手にされずに終わるのがオチでしょう。なぜでしょうか?多くの日本人の根底には「思想」がないためです。
「思想がない」ということは、(社会に出ている一般的な)日本人には、長期的な視野に基づく「主義・主張・信条・理念」がないということです。私たちが住んでいるこの世界を、どのようにして素晴らしい世界へ導くかという「夢・志・自覚」がありません。(まぁ、一部ではこのような人々を「B層」とも呼んでいるそうですが。笑)
「無神論」の価値観を根底に持つ儒教の影響か、あるいは戦後始まった「唯物論的偏左教育」を引きずってのことでしょうが、私に言わせると、「いつまで占領政策やってるの?」ということなのです。多数派が無神論で凝り固まっている民族は、世界広しと言えども日本人だけではないでしょうか?(笑)
また、儒教の特徴である「お上絶対主義」が過ぎますと、甘えれば周囲が何とかしてくれるという「ごね得」を得ることしか考えないようになります。次第に、自分の頭で考えて行動を起こすことがなくなるため、「思考力」と「想像力」が奪われていくことになります。よって、相手の痛みを理解することができなくなるため、結果的に「他者への思いやり」が欠如し、イジメが横行することになるのです。
極論しますと、大抵の人は「他人を貶めてまでも、いかに自分だけはいい思いをするか」だけかもしれません。これは思想とは言いません。「陰謀」と言います。(笑)
もちろん、偏左教育を行なってきた社会が悪いと言えば悪いのですが、しかし一方で、これまでの風潮を信じ込んで実践してきた国民にも問題があったということです。
何でもかんでも上司の顔色を伺わなければならない文化というのは、いかがなものかと思います。これからは、自分の頭で考え、自分で責任を持ち、自分の裁量で判断する場面を多くするべきであると考えます。
すでに時代は「ミロクの世」に向けて変わりつつあります。「能力横並び主義」を改めましょう。すべての人の能力が同じであるわけがないのです。中には直感力に優れ、突出した能力を持つ人もいます。これからは、このような独創性溢れるユニークな人を前面に押し立てるべきです。そうしないと、これから始まるであろうボーダーレスの世界(国境のない世界)では全く相手にされないと思います。
あと、この国の悪弊である「官僚主義」もそろそろ改めましょう。私に言わせると、「いつまで官僚主義やってるの?」ということになるのです。「1400年前に大宝律令を制定して以来だ!」という屁理屈は、もはや通用しません。(笑)
現在の官僚は「唯物論者」が多いのではないでしょうか?今までのマスコミや学校教育のあり方を観れば、大方推測できるというものです。「唯物論者」が世界を救えるわけがありません。唯物論者には、天界からのインスピレーションとしての智慧を授かることはないのです。よって、できるのは他国の猿真似くらいになってしまうのです。これからは、声の大きさとペーパーテストだけを重視するのではなく、その人の人間性や感性の方を重視した文化へと移行していくべきだと思いますね。
コメント :
ーー1つの記事に、いくつもの考察点が見えまして、御膳のごちそうのように何所から考えましょう...と悩みました。
プーチンさんも御機嫌がいけなかったのでしょう、と思いながらでしたが(笑い)
未来へ向けて目を転じれば、これからの教育のありかたが最も重要だと思えてきます。
どんぐりの背比べを創らない教育_天才や新人類には必要がないプロセスだとは思いますが :
•エゴの表出も恐れないで、まずは自己主張をさせる過程を容認する教育=話すのは生徒で先生は聞き役
=自己を知るプロセスの1つ=生徒同士の議論=議論の後の反省/大きな視点への転換となる内観へとつながっていくプロセス。
•決まった宿題は少しで良いから、学校生活などを通して、自分だけにある個性を育成するための内観や挑戦をしていただく。
わたし自身が学生生活を体験して感じてきたこと。
1_ベストな教育とは、点数制では無い教育。毎日学校へ出る必要もなくて、親に何かあれば家にいて手伝うなども教育とみるべき。
例えば、愛犬が死ぬから立ち会う/学校を休んで母親と一緒にあれこれ行う_そういうことも立派な教育だと思います。
2_教育とは、屋外にあるもの。教室内と外での教育を日々行う。修学旅行などなくても良いが地域を深く知ることは重要だと思います。
体験では、なかなか運動神経も良かった子供でしたが、運動会も点数制と変わらないつまらない枠はまり御披露目会でした。
<大人=先生に言われたように動き走りゲームするだけのロボット運動会>_心から湧いて来る楽しさなど皆無でした。
3_きちんとした精神鑑定や心理監察を受けて、それにパスしたら教育者になれる厳しい制度はつくられるべきだと思ってきました。頭より心。これが教育者にも大事だと思います。
*教師や先生、そして親は、実は子供である生徒、子に見抜かれていたりします。若い者から学ぶ、ぐらいの気持ちで教育に取り組むのが良い結果を生んでいくでしょう。
上の言いなりで動くより、上に改革していくことの理由つけを与えていける、上を感動をさせて応援者にできるような、そんな若者が出てくると良い日本になっていくことでしょう。
つまり、できる下に嫉妬する程度のマイナスB級がロボット人間を喜ぶだけで、できた人格心格の上なら、できる下に嫉妬することも皆無なはず。
若者を批判される日本なら、古参が不出来である結果なので、プーチンさんも「紙を渡した上に言いなさい!」と、その歴史を分っていて、その言葉が出たのだろうと。
皆が1人1人、自身をしっかりと保つ小さな天皇になれるなら、それが失われた真のニホン人の復活だと、わたしは思います。
教育制度の見直しと改革は子供の魂のために貴重な事です。憲法改正と同じぐらいに、日本人ならば考慮するべきだと感じております、
長くなりました。m(__)m 紙面を頂きまして、ありがとうございました。
すみません...書き忘れたことがあるような気がします。
>教育は外にある、と書いたと思うのですが、内観と共に(内観を呼び起こすためにも)外の社会、
子供なら地域社会に特に絞り込んで
地域がどうなりたつのか、人々はどう地域に関わるのか等を監察して記録したり、他の生徒や親とも、それについて対話をする教育はたいせつだと思います。
大家族崩壊の中、それでも地域も家族であり、隣の御年寄りも祖父祖母であり、自分は地域全ての子孫であるというような
そんな愛情と大きな目と心でみた「回覧板が回る家々は皆家族」とでも思える地域のつながりが戻って来るためにも
子供達の教育の一環として、外=課外教育=地域を知って地域社会/家族の一員であるという
その意識を形成するのが善いと思えました。
地域ごとで、みんなで野菜栽培など、将来できる活動は少なくは無いと信じます。
家族同士が思い合うのは基本でしょうが、そこで止まらないで地域ごと皆が思い合う...例え都市部であろうとも。長屋形式の下町の良さと寺子屋式の古くて新しい教育の心。土と野草の校庭=寺子屋の庭。幻想だと笑いながらも憬れるわたしがいます。
家を買いましたと言ってみても、隣の家と1mも離れていない家々/新興住宅を目にすれば
長屋とそんなに変わらないと、わたしの目には映りますから...仮に10m離れていても、それが何?...お隣さんには変わりありません。同じ空気を共有して、同じ太陽光を浴びています。
思想をもつということは、未来は特に、いらない気取りを一掃してしまえば、個々の特質特性を尊重できて、内面の豊かさや違いの面白さを讃え合えるなら、家の外観は全て同じだろうと、日本人はもっと活き活きとしてくると思えます。
わたしに理想ですが、生活レベルはどんぐりの背比べの金持ちも貧乏も無い..で、善いと思います。内面を育成してオリジナルな思想や思い、空想力、想像力を豊にする教科を中心にもってくるべきです。内面の成功を獲得するための教育=自殺のない社会への橋となる気がします。
自殺者で成仏できない霊は次の犠牲者を生む可能性はありますし、そういう例は耳にします。
自殺のない社会を創造するためにも、心の教育はとても重要だと思います。ーー個々が個々の輝きで生きられる世界が、七色輝く世界だとイメージします。
それは、互いに互いの違いと能力を必要としあえるレインボー世界で、ロボット化しない思想/思いを自然と生み出すから、それは出現可能なのだと思えます。循環の法則でしょう。
その時に、実はプログラミングされた科学の産物のロボたちが人の手足となって活躍できる空想が生まれました。
簡単明解。ロボはロボット人間には必要ありませんから。有意義に平和にロボを活用することも難しいでしょうから。
ありがとうございます。
このようにコメントを書かせて頂ける恵みに預かり、本当に感謝いたします......。
未来へ向けて目を転じれば、これからの教育のありかたが最も重要だと思えてきます。
どんぐりの背比べを創らない教育_天才や新人類には必要がないプロセスだとは思いますが :
•エゴの表出も恐れないで、まずは自己主張をさせる過程を容認する教育=話すのは生徒で先生は聞き役
=自己を知るプロセスの1つ=生徒同士の議論=議論の後の反省/大きな視点への転換となる内観へとつながっていくプロセス。
•決まった宿題は少しで良いから、学校生活などを通して、自分だけにある個性を育成するための内観や挑戦をしていただく。
わたし自身が学生生活を体験して感じてきたこと。
1_ベストな教育とは、点数制では無い教育。毎日学校へ出る必要もなくて、親に何かあれば家にいて手伝うなども教育とみるべき。
例えば、愛犬が死ぬから立ち会う/学校を休んで母親と一緒にあれこれ行う_そういうことも立派な教育だと思います。
2_教育とは、屋外にあるもの。教室内と外での教育を日々行う。修学旅行などなくても良いが地域を深く知ることは重要だと思います。
体験では、なかなか運動神経も良かった子供でしたが、運動会も点数制と変わらないつまらない枠はまり御披露目会でした。
<大人=先生に言われたように動き走りゲームするだけのロボット運動会>_心から湧いて来る楽しさなど皆無でした。
3_きちんとした精神鑑定や心理監察を受けて、それにパスしたら教育者になれる厳しい制度はつくられるべきだと思ってきました。頭より心。これが教育者にも大事だと思います。
*教師や先生、そして親は、実は子供である生徒、子に見抜かれていたりします。若い者から学ぶ、ぐらいの気持ちで教育に取り組むのが良い結果を生んでいくでしょう。
上の言いなりで動くより、上に改革していくことの理由つけを与えていける、上を感動をさせて応援者にできるような、そんな若者が出てくると良い日本になっていくことでしょう。
つまり、できる下に嫉妬する程度のマイナスB級がロボット人間を喜ぶだけで、できた人格心格の上なら、できる下に嫉妬することも皆無なはず。
若者を批判される日本なら、古参が不出来である結果なので、プーチンさんも「紙を渡した上に言いなさい!」と、その歴史を分っていて、その言葉が出たのだろうと。
皆が1人1人、自身をしっかりと保つ小さな天皇になれるなら、それが失われた真のニホン人の復活だと、わたしは思います。
教育制度の見直しと改革は子供の魂のために貴重な事です。憲法改正と同じぐらいに、日本人ならば考慮するべきだと感じております、
長くなりました。m(__)m 紙面を頂きまして、ありがとうございました。
すみません...書き忘れたことがあるような気がします。
>教育は外にある、と書いたと思うのですが、内観と共に(内観を呼び起こすためにも)外の社会、
子供なら地域社会に特に絞り込んで
地域がどうなりたつのか、人々はどう地域に関わるのか等を監察して記録したり、他の生徒や親とも、それについて対話をする教育はたいせつだと思います。
大家族崩壊の中、それでも地域も家族であり、隣の御年寄りも祖父祖母であり、自分は地域全ての子孫であるというような
そんな愛情と大きな目と心でみた「回覧板が回る家々は皆家族」とでも思える地域のつながりが戻って来るためにも
子供達の教育の一環として、外=課外教育=地域を知って地域社会/家族の一員であるという
その意識を形成するのが善いと思えました。
地域ごとで、みんなで野菜栽培など、将来できる活動は少なくは無いと信じます。
家族同士が思い合うのは基本でしょうが、そこで止まらないで地域ごと皆が思い合う...例え都市部であろうとも。長屋形式の下町の良さと寺子屋式の古くて新しい教育の心。土と野草の校庭=寺子屋の庭。幻想だと笑いながらも憬れるわたしがいます。
家を買いましたと言ってみても、隣の家と1mも離れていない家々/新興住宅を目にすれば
長屋とそんなに変わらないと、わたしの目には映りますから...仮に10m離れていても、それが何?...お隣さんには変わりありません。同じ空気を共有して、同じ太陽光を浴びています。
思想をもつということは、未来は特に、いらない気取りを一掃してしまえば、個々の特質特性を尊重できて、内面の豊かさや違いの面白さを讃え合えるなら、家の外観は全て同じだろうと、日本人はもっと活き活きとしてくると思えます。
わたしに理想ですが、生活レベルはどんぐりの背比べの金持ちも貧乏も無い..で、善いと思います。内面を育成してオリジナルな思想や思い、空想力、想像力を豊にする教科を中心にもってくるべきです。内面の成功を獲得するための教育=自殺のない社会への橋となる気がします。
自殺者で成仏できない霊は次の犠牲者を生む可能性はありますし、そういう例は耳にします。
自殺のない社会を創造するためにも、心の教育はとても重要だと思います。ーー個々が個々の輝きで生きられる世界が、七色輝く世界だとイメージします。
それは、互いに互いの違いと能力を必要としあえるレインボー世界で、ロボット化しない思想/思いを自然と生み出すから、それは出現可能なのだと思えます。循環の法則でしょう。
その時に、実はプログラミングされた科学の産物のロボたちが人の手足となって活躍できる空想が生まれました。
簡単明解。ロボはロボット人間には必要ありませんから。有意義に平和にロボを活用することも難しいでしょうから。
ありがとうございます。
このようにコメントを書かせて頂ける恵みに預かり、本当に感謝いたします......。
> 実香道さん、こんにちは。
熱いコメントありがとうございました。
>•エゴの表出も恐れないで、まずは自己主張をさせる過程を容認する教育=話すのは生徒で先生は聞き役=自己を知るプロセスの1つ=生徒同士の議論=議論の後の反省/大きな視点への転換となる内観へとつながっていくプロセス。
そうですね。自分の理念・希望・志を養う上で、大切なことではないでしょうか?
>•決まった宿題は少しで良いから、学校生活などを通して、自分だけにある個性を育成するための内観や挑戦をしていただく。
今思いついたのですが、「ワクワクを大切にする教育」というのも、いいかもしれません。自分の内面から湧き上がる感情を大事にする教育です。
現在までの画一化教育では、このような感情を押し殺し、言われた通り、額面通りに作業を行なう「ロボット人間」を多数作ってきたと思います。言うことを聞かない場合は、即座に恫喝です。そこには、学ぶ楽しさがありません。これでは奴隷と何ら変わりがないということです。
>生活レベルはどんぐりの背比べの金持ちも貧乏も無い..
私の信条「人類平等、命に貴賎なし」の考えでいくと、生活レベルはほぼ一定となります。これは縄文時代のあり方を模範としています。しかし、人それぞれの役割は、天命に従ったものとなります。
現在は、左脳偏重の詰め込み教育ではありますが、これからは、右脳開発教育を採り入れるべきでしょうね。呼吸法とイメージング教育によって、直観力と感性を養うのです。結果、人の痛みも分かるようになり、イジメも減ることでしょう。(右脳開発教育は、故・七田眞氏が権威でした。)
次回の5月9日のブログで、人々の意識を「グレン」と引っくり返し、一気にミロクの世へと近づけたいと思っております。楽しみにしていて下さい!
コメントに御つき合い頂いて、感謝いたします。
曽ヶ端様...
わたしは、どうしても左脳と右脳を分けてしまうことに嫌気がさしていて(すみません...)
右脳教育もブームにはなりましたが
宇宙が歩幅を狭めて地球に関与する今からは、人類の切断された12の遺伝子コードが蘇る希望に合わせた空想を楽しみたいと思っています。
右脳と左脳が1つになる。という空想も加えます。
間悩はまるで脳内宇宙の橋で、右脳と左脳が和して機能するように在る気がしますが。
左右のバランス=別々に働くのではなく同時に両方の善、良さを機能させられるなら=現実や他の苦労などを理解して分析して掌握しながら、
思いやりと共に新たな建設的で癒しを生む創造が実現していくと思いました。
こういう過程を経て、やがて右脳と左脳は1つに融合して、起源に授かった人の完全な悩宇宙へと還ることが可能だろうと思いました。
ですから間悩という橋を回復させるにも、第三の目と云われるチャクラの開きがたいせつになるのだろうと。
生命の樹のことは素人ですが、人の努力の1つとして、やはり人体の全てのチャクラを正しく開いていくことが、生命の幹を回復させるのに繋がると思えますし
人体電気といいますか、エネルギーの回線を詰まりなく機能させていけることになり、神の子としての人体が本当に生き返るための1つの修練/努力だと思えてなりません。
ここに正しい瞑想のありかたが問われます。朝日を額に浴びる、体に浴びるという天然瞑想が縄文時代のものであった幻想も湧いてきます。
左脳を見捨てる、または疎かにすることは、現実的に社会を観察する=自他の観察を冷静に行う=日常生活の営みをしっかりと実行することなどを捨てる運びへとつながる気がします。
左脳と右脳を一悩化する。言葉遊びでは一能生化となります(笑い)個々の内面の矛盾も葛藤も晴れると思えます。
統合は人類の悩=世界統合=宇宙丸ごと調和の中での統合=わたしの平和統合へのイメージ*プロセス
=宇宙神と人は1つであることの明かしではないかと...思っております。
人体は宇宙の写し。悩は心(真=神)と恊働する宇宙連合であるという子供じみた空想で、申し訳ありませんが、コメントの結びにいたします。
曽ヶ端様という、光の柱が体内に立った御方と通信させて頂ける喜びに震えます。
ありがたく思います。
5月9日を楽しみにしております。。。。。。ありがとうございます。
合掌
私としましても、現在の左脳偏重教育ではなく、左脳教育と右脳教育の両方を採り入れるべきであろうという考えです。左脳教育を見捨てるという考えはありません。両方のバランスが取れて始めて、間脳(第三の眼)が活性化するであろうという考えです。(これは自分の経験にもよります。)
しかし、どちらかというと、右脳(直感、感性)の方を重視する方向がベストであろうというニュアンスです。いわゆる「霊主体従」的な考え方であります。
[2013/05/08 11:25] | 曽ヶ端 #- |
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