わたしも手塚治虫先生が大好きでした。
実は、漫画よりも、先生の御顔とあふれている御心が見える目と雰囲気を
もっと好ましく思い、親しみを感じてきました。
正直云いまして、酷な話でしょうが...家族に感じるより家族としての温かい何か、つながっているような確かな信頼性などを
子供の頃には表現しきれないけれど内に響いてくるもの、共鳴するもの、静かな温かい震動を確かに感じていました。
わたしは心を閉じ気味にしていながら雑木林で基地創りなどをして遊ぶ野生児でしたが
やがて成長して「有名にはならない」ことを決めていながら
転々としました。
能力が、それなりにありながら、内に燃えて爆発するエネルギーが淡かったとも云えて
小さく生きることを固く決意して生まれたのではないか...とも云えますが
7才あたりでは誰にも教わらないのに、黙々とつかれたように上から見た図としての設計図を描きながら
より良い住まい...その意識をもって思考しながら遊んでいたのでした。
親はいつも家にいませんでしたから、そんなわたしを知るわけもありません。
おそらくは、過去生で設計や環境設計などに情熱を傾けていたのでしょう。
今でも素晴らしい設計をなさる方々の家々などを見るのが大好きであります。
絵を描くのも好きでした。学校の全国作品コンクールでは良い順位でした。
親はそれなら知るわけなので、親に促されて油絵の師をもったのは確か8才の時。
その師は油絵が専門のようでした。また二期会で賞をとった方だとか、母は申しました。
師に、ある風景を描くように言われて描きまして、誉められまして、期待はされたのですが。
成功するためには生まれてきていないので(笑い)..。
すでに能力を発揮できることを(過去ですでにやったことをやらない)さらに学ぶより
初めての体験(初めて得る苦悩体験?(笑い))に生きると約束を果すために
全ての「有名になり贅沢な暮らしができる」可能性と誘致から去ってきている半生ではありました。
十代の頃でしたが
47年も前の15万円という支給の申し出と有名な作詞家、または歌手になれる、または両方を同時に手に入れられる誘いを受けないで
地獄のような結婚生活へと向かっていったわけですから...それなのに、それで良かったと思うわけですから。
手塚先生を偶然に御見かけする機会がありました。どこかを歩いていた時のことでした。ふと顔を横に向けると
人混みの中で、一段と背が高く、放つ光が明るい方がおりまして
その方が手塚先生でした。
どういうことか...わたしを真っ直ぐに見ておられました。そして温かい笑顔でした。
わたしは地獄生活の中で、笑顔やあいさつや目での交信もできないウツ症状/自閉の状態でしたから
先生のオーラなどを確認しただけで通り過ぎたのでした。
ところが、後で思い出すたびに、温かいものが込上げてくる。懐かしい思いになる。
今も涙がでるほど、というしだいで
互いの魂の故郷を心の奥で知る者同士の出会いだったのかしら...と、図々しくも、そのように思ったり。
手塚治虫先生!あの時は、ありがとうございました。(涙)
先生の笑顔と輝きは、神様が通りすがりの偶然として与えてくださった贈り物でした。
今でもはっきりと思い出します。
そして自らに「虫」という名をつけられて御自分を虫のように小さな存在として控えておられて
そうでいながら地球の虫という虫が微生物を育んだりする奇跡を知っておられて...天敵を掃除する天使虫たちを愛しておられたのだ...と
わたしは、そう思います。
虫のように小さな人間で良い。おのれの強欲という虫や怒り虫などの害虫を治める虫であれば成功だ。
...そういう地球生活を今回は選んで生まれてきた自身なのだ。そういうことでした。わたしが求めたのは、それで虫が必要とされる土世界であり、それは土星というサタンに支配を許された土の惑星だから、であり...
その地球世界の中では、地獄次元のことであり...その次元を求めて生きる虫の1つであるのは正しいことなのでした。
後悔をしたことはありませんが、もっと良い虫になれた点を反省するのは必要なので
良い虫でなかった時節の結果の実りの貧しさを、残りの人生でさせていただく。
死ぬまで贅沢とは無縁でしょう。虫らしく失敗を消化しましょう。黙々と。
過去でさんざんと贅沢したと思えば済みます。
虫は、ですから己のエゴを天敵として消化した小我(自軸)を形成して
自核であるはずの己の中心を貫く天地に恥ずかしくないように、人間として生きる人道を外さないための軸に成らせ生らせる。...と見ました。
軸と核の2つの相互連動なくしては、螺旋エネルギーも遺伝子の復活も起こりません。
軸が機能しないなら
核もあって無いのと同じという...のは宇宙の根源神さまが
人立たずしては正当な神は働けません(増せん)と言うしだいでしょう。
軸ができていない者に寄る神は神であらん...という道理でしょう。
それでも、天地(天土)を貫くのが大宇宙神ですから
土星、サタンといえども
大宇宙神の一部であるのは間違いありません。人の小我を育成する悪役を司ります。
こういうことは長年信じてきたので
悪を憎悪して恐れたりすることも逆作用として働き、そういった感情はエゴに姿を変えていくので
人体というエネルギー体/太位になれるはずが、他意という他の意のままになるものにも変わってしまうわけで
大我と真我との交わりを見失うことが出てくるわけであります。
悪役は、我を成長させて自覚と覚醒を促すために存在してきた。
闇は、光の存在を知らしめるために闇としての任務を受けた。
大宇宙の律法。率律。陰陽。陰の核に陽あり。陽の核に陰あり。
ーーw−ー* わにの附記:
陰陽には陰陽道から出ている二別れ、分離を思うけど、2つが密着しながらグルグル回転するイメージがしたら
ーーV 黒はコーヒーで白が豆乳に思えたーーわに///融合統合したら味も新た
第三の道が
宇宙から未来のーーVわてらがやってくる///YOU! , FOR OPPORTUNITY ?
わに英語ーーwごめんちゃーーチャチャでお尻ふり
_手塚治虫先生の御写真を載せます_
後には曽ヶ端賢治様の記事とコメントの往信を転載させて頂きます。
ありがとうございます。

神一厘の仕組み・探究道 ~アセンションと神・世界秩序の始まり~
シッダルタとワンネス
2013-05-03
手塚治虫先生の『ブッダ』の一場面からです。 悟りを開いたシッダルタ(ブッダ)が、ヤタラに対して言った自分の言葉の中に、不思議な感覚を覚えた瞬間の一場面です。このように、即身成仏(神人合一)を果たした後は、天界からのインスピレーションに身を委ねるだけで、自然と言葉が発せられるようになるようです。もちろん、人々を導くための「天界の言葉」として発するようになのです。
さらにシッダルタは、ヤタラに対して次のようなメッセージも残しました。「その川を見なさい 川は偉大だ。
自然の流れのままにまかせて 何万年もずっと流れてる。
流れをはやめようという欲もなければ、
流れを変える力も出さない。すべては自然のままなのだ!
しかも大きくて美しい・・・喜ばれ、そして恵みを与えている・・・
おまえも巨人だ おまえの生きかた次第で、
川のように偉大にもなれるだろうよ。」
大河に身を委ねる生き方・・・老子の教えにも通ずるものがあります。この大河とは「大我」のことでもあり、あるいは「大いなる創造主」のことでもあります。「真我」と言い換えてもいいかもしれません。いわゆる宇宙の中心を差して、このように呼んでいます。
一方、真我の対極にあるのが「自我」であり、言い方を変えますと「小我」とも呼ばれています。「自我(小我)」とは、一般的には「自分自身に内在するエゴ」と解釈される場合もあるようですが、実はそうではなく、「本当の自分自身」のことなのです。
自分自身と宇宙との一体化・・・すなわち自我と真我とを融合させることによって、「即身成仏」の境地を体現することができるようになります。(シッダルタが悟りを開き、「ブッダ(悟った人)」と呼ばれるようになりました。)この即身成仏の境地に至るためには、その人の中に「エゴ」があっては達成させることができません。エゴとは言い方を変えますと、「我れ先に、我れ先に」と焦る心のことです。あるいは、他人を押しのけてまでも、自分だけはいい思いをしたいという、平和よりも争いが勝る心のことです。
しかし、「エゴを無くそう、エゴを無くそう」と焦る心は、逆にエゴを固めてしまうことになります。自分自身の中に内在するエゴの存在を嫌がるのではなく、逆にエゴの存在を認め、感謝しながら抱き参らせる心が大切です。やはりこのためには、定期的に一人静かに内観する時間が必要となるかもしれません。次第に、内在するエゴが消滅する方向に向かっていくことでしょう。
自我と真我の融合ができた後は、生まれる前に定めてきた使命を思い出すとともに、これまでの人生経験における、あらゆる事象が理解できるようになります。このプロセスを「ディセンション(次元降下)」とも呼びます。ディセンションは、その人自身の本来の魂(類魂)が、肉体に宿り始めた時に起こります。
私自身、ディセンションが起こった時は、あまりの強烈な光が降りてきたためか、その日から数日間、精神状態が不安定になるかと思えるほどでした。また、その瞬間は、とめどなく涙が溢れてきました。今思うと、類魂たちによる、「やっとみつけてくれたようだね」という感激の涙だったのかもしれません。
ぜひ皆さんにも、ディセンションを体現して欲しいと思います。そのために、まずは自分自身の中に、宇宙の中心である真我(内在神)が存在している事実を、受け入れることから始めましょう。
「私は神の子である」と

声に出して宣言してみたら良いと思います。次第に、自分自身が導かれるようにして、いい方向へと変わっていくことでしょう。(私のブログや小著を読まれた後に、ディセンションされたという方が増えてきているのは、本当に嬉しいかぎりです。)
さて、シッダルタの話に戻りますと、シッダルタはこの後、森羅万象すべてがひとつに繋がっているという「ワンネス」の境地を悟ることになります。以下は手塚先生がワンネスを表現した絵です。(ビジョナリーな方は、必ずワンネスを悟られているんですねぇ。)
この世に生きとし生けるもの、すべては一つに繋がっています。その中心にあるのは、もちろん宇宙の中心です。安心して下さい。
さて、シッダルタの話に戻りますと、シッダルタはこの後、森羅万象すべてがひとつに繋がっているという「ワンネス」の境地を悟ることになります。以下は手塚先生がワンネスを表現した絵です。(ビジョナリーな方は、必ずワンネスを悟られているんですねぇ。)
この世に生きとし生けるもの、すべては一つに繋がっています。その中心にあるのは、もちろん宇宙の中心です。安心して下さい。
あなた方は、この地上に生まれ落ちることができたという、
その事実だけで、十分神から愛されています。
できましたら、この絵を脳裏に焼き付けて頂き、あるいは内観の時にイメージングしてみましょう。イメージングが苦手な人は、この絵をプリントアウトして、壁に貼り付けておくことで、絶えず目に留まるようにしておくとよいと思います。
【参考サイト】手塚治虫「ブッダ」 (「ざっき」)
【参考書籍】
できましたら、この絵を脳裏に焼き付けて頂き、あるいは内観の時にイメージングしてみましょう。イメージングが苦手な人は、この絵をプリントアウトして、壁に貼り付けておくことで、絶えず目に留まるようにしておくとよいと思います。
【参考サイト】手塚治虫「ブッダ」 (「ざっき」)
【参考書籍】
![]() ありがとうございました...また気がつくことができました。 宇宙の子の1人。神の子。その思いが蘇ってから「なぜ地球にいるのか」、辛い時には「早く帰りたい」と空を見て思いました。 その辛くて重くて哀しくて仕方がなかった時、交差点におりました。 交差点を渡ったので、それは象徴的です。 その時から、天を思うことを休んで、地を生きる人間として、もっと強くなっていこうと決めたような気もします。 やがて、十字架を 人間社会/地球の横/水平線と天地を貫く宇宙の律法といいますか神の御心の垂直線というような、そんな観点でとらえました。 そして垂直線は光波であり螺旋を描いて昇り降りするエネルギーと思えました。 人類や地球という水平線=現実世界も波うっています。螺旋状のエネルギーを人類の意識で生み出します。 これを小我と思えば、新たなことが空想できました。 小我なくしては...本当には人類はつながれない。 儒教の流れ(川)に乗りましたら、小我はエゴに置き換えられてしまい、半端な次元の上に隷属する奴隷になるのだと、全生命がつながることが難しくなる。 前の記事からつながるビジョンを持てます。 これがモーゼーのエジプト脱出/奴隷制度からの解放/ファラオの支配から抜けて自意識を育てる40年の荒野の旅を民にさせた真意のような気がします。 牛の像を造り偶像崇拝に依存した(小我をなくしていた)一部の民が、ヤハウエに制裁を受けた理由も明確になります。 個人的に、優しいだけや弱いことや病弱が、特別な次元から降りてきた高い魂だからであるとする観相に反発するのは そう思うのも依存や甘えであって、人間として生を受けたのなら泥にまみれながら人間を精一杯やってみる!と意思することで どんな次元エネルギーを受けても自核を保つことを学ぶ(試練)荒野の旅になると思いました。 そして、まみれて泥やゴミそのものに生ってしまうかどうか...が、小我と大我をクロスさせた肚というヘソを失うかどうかにかかっている気も...します。 体の真ん中に十字架をもつのが人だと思ってきました。 それは背骨を走るチャクラとも無縁ではなさそうです。 クロスはどこでするのでしょうか?...母体につながっていたヘソの緒は宇宙や神とつながる緒でもあるなら やはりヘソのような気もしますが、肉体は恩恵に照らされて明るい(月のようなもの)ですから そういう意味ではヘソ/肚かもしれません。 そして、でも霊魂としては、もう1つの十字架を意識します。それは横隔膜という体内の銀河でクロスする十字架かもしれません。心でクロスすると言うのも良いのですが。 横隔膜銀河を挟んで、肚という牽牛と悩宇宙と連携する心(心臓)という織り姫(思いと想いを織るヒメ/秘め)を体内宇宙にもつ人間だと思います。 まさに 宇宙の映しであり写しであり、神の映し(写し)ですから...神の子だと思つことができます。 そういう2つの十字架の合わさりを感じてきました。 人間生命としての肚を創るための1つの十字架は、小我を成長させるために。注連縄を連想してしまいます。 この小我が、じつはおのずと(神仏や先祖に依存せずに)魔除けになる。 魔を折伏するのも可能であり、正しい秤をもって(都合のよい正義ではなく)自他を治めるのが可能であり、肚から湧く情をもって悔恨を魔に促すことも可能でしょう。 それができるとは、自然と気持ちが悪い作り笑顔は顔から消えるということでもあり 弥生系には嫌われるでしょうが。 そして 人間でありながら宇宙と神と繋がる(天地を貫いて走る意図/糸/縄)螺旋のエネルギー光波を頂くなら ハレルヤ!!!であります。 これが体を貫くディセンションとは...体内に光の柱が立つ!...ということではありませんか? 曽ヶ端様は光の柱に生られた...ということですね。凄い! 晴れるや!!! 晴れるや。...日本語はあらゆる外国語に通じる光涛波/光透波だと分ります。全語に当てはまるとは思いませんが。 絵のようなワンネスには、大我へとつながり小我も育成することで完成させていけると自覚いたしました。 本当に、本当に、ありがとうございます。 わたしなりのイメージの総括を果せました。また忘れていたことでした。 それに、いつも「これはエゴから来ていないか?」と問いかけてくれる何かが内にありまして それが小我なのだと、今日は自覚できましたので 大我につながることができるなら、小我はカンナガラで機能してくれるのでしょう。 ガン(コ)ナガラに間違えられることもあります。それでも一人で生きるわけではないので 相手の肚の出来具合ではカンナガラもガン(コ)ナガラに映ることでしょう。 また わたし自身の未熟な部分がガンコだと思われることもあるでしょう。 直観で進んでいくタイプですが ガンコだと責められても落ち込まないで、エゴと小我を見極めて、自信をもって老後を生きる勇気をいただきました。 本当に、ありがとうございます。 >牛の像を造り偶像崇拝に依存した(小我をなくしていた)一部の民が、ヤハウエに制裁を受けた理由も明確になります。 興味深い解釈ですね。やはり、私たちには「神への敬虔さ」が求められるとともに、同時に「精神的な自立」も求められるということです。 >人間として生を受けたのなら泥にまみれながら人間を精一杯やってみる! そうですね!私もこれまで、泥にまみれながら、何とかここまで辿り着きました。これから第2ステージが始まるところであると感じております。 >クロスはどこでするのでしょうか?... おっしゃる通り、自我と真我はヘソか、あるいはその上の心臓あたりでクロスするのでしょう。 >魔を折伏するのも可能であり、正しい秤をもって(都合のよい正義ではなく)自他を治めるのが >可能であり、肚から湧く情をもって悔恨を魔に促すことも可能でしょう。 まず、藤原氏等が日本全土に仕掛けた「陰陽道のカラクリ」を見抜くことから始めましょう。この日本という国は、現在まで陰陽道の呪詛で溢れかえっているのです。まさに「呪われた日本列島」であります。この件につきましては、次回、ブログにて詳しくお伝えさせて頂きます。 >それができるとは、自然と気持ちが悪い作り笑顔は顔から消えるということでもあり >弥生系には嫌われるでしょうが。 何でもかんでも笑顔でいなければならないとする風潮は、やはりおかしいと思いますね。「3次元=幽界」でありますから、地獄の中にいて、常に笑っていられる方がおかしいのであります。 >わたし自身の未熟な部分がガンコだと思われることもあるでしょう。 頑固さというのは、ある意味、サムライの気質であると言えます。いい意味でも悪い意味でも。 いい意味での頑固さとは、「武士は食わねど高楊枝」の心境で、不遇の状況にあったとしても、歯を食いしばって、孤高を貫く強さとして表れてきます。 一方、悪い意味でも頑固さが出てしまうと、人間関係がギクシャクしてしまい、あらゆる支障がきたされることになります。どうでもよい部分は、自分から身を引いた方が良いということです。 [2013/05/03 22:04] | 曽ヶ端 | 新装版 ブッダ 全14巻 (2011/03/20) 手塚 治虫 著 |
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