Friday, December 21, 2012

補足ヴァージョン : 12月21日に思う


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


まずは、洗濯をしないとならない事を思ったのです。笑い

昨夜はシャワーを浴びながら、風呂場のタイルの掃除を軽くしました。
そして今、日本の昔の風呂場を思い出しています。


なんでも木材で作られていました。大きな窓もありました。懐かしいです。

風を入れることができるので、黴びることもありませんでした。
釜は木切れと新聞紙で付け火にしてから湧かしました。それを7才あたりから私自身の手でするという体験は、集中力の養いになったと思います。


火種との呼吸を読んでタイミングをとるという、一種の縄跳び遊びやバトミントン、そして結局は人の気持ちを読むといえるか感じるという、そういった呼吸読みにつながる一気集中を養えた気がします。

おおぉ、なんだ、そうだったか、日常のそれは拝火教だったか!
冗談です。
マイケル ジョーダンには通じないだろう、このジョウダン⇦だじゃれです。


⇩真面目です。
このような、普遍生活という素朴な暮らしの真善美はどこへ消えていってしまったのか。
思えば、なぜ、泣けてくるのか。私は地球と共に泣いているのではないだろうか。


これは私のシフト、アセンションの手前で起こっているシフトなのだろうか?
シットでなければ受け入れよう。シットは嫉妬と変換できるのが...凄い。


飛びますね、ぶんぶん、あちこち脳たりんダンス渦巻く脳内の蜂かハミングバードか。
呆れて真面目なことは、もう言えません。

アキレテは、あぁ切れてしまいそう、の感情表現終結用語です。切れてしまいそうな手前の一歩の、人べん無しの文字『呆』だというしだい。

人心という『人べん』失い一瞬の間を持つ『呆れる』は、心を保てない、答えも出ない、言葉も無い、が然し普段から何を思っているか、何をどう脳が受け取り処理しているかなどが、回復を決めます。つまり、体験がものをいうわけです。

ナンテ....冗談ですよ、これも。



ここでは珍しい45F◦_____は、今夜の気温予定。
日本なら、零下近い気温というしだい。


だからというわけでは有りませんが、書いておきましょう。



私は、あえて行う瞑想を信じていません。

経をあげていた頃を思えば、無心にただ経をあげている時が瞑想でした。

榊が揺れたり、水の入ったコップに泡がたくさん出てきたり、そんな不思議が起きても心平に経をあげてました。

何の考えも頭にありませんでした。

また、懸命に働く年数は、それはそれで、怒りや不満などの感情を起こすことがなければ瞑想的でした。

結局は、何をしていても、喩えば女性なら針仕事でも瞑想になり得ます。

つまり、黙々と行う手仕事は、正しく背筋を緊張させずに著しく曲げないのなら、瞑想に成り得ます。

手工芸の匠とは瞑想者である、と、そう思えてくるぐらいです。



正しい食のありかたも瞑想です。

もちろんに食事時は夫婦や親子の気持ち交流の場です。

感謝しながら、犠牲になって私たちの血肉になってくださる食そのものに敬意を思いながら、黙々と、生かされいる感謝をもって、しかし明るい気持ちで頂くのが正しいと思うのです。

そういうことを家庭教育として浸透させないできた戦後教育と学校教育の弊害。


今逸れものが増えているとしたら、こういう家庭(過程)での欠損が大きな原因ではないかと思えてきます。

素朴な充実への原点と原理を見失っていた家庭が多い日本になっていることを、私なりに納得しています。



夫婦や親子の会話や交流は、食後に行うのが良いと思えます。

つまり、すぐに自室にこもってTVを見る、漫画を読む、インタ ネットする等等が、いかに便利生活の策謀に陥っているかを証明していませんか?


食後の一時という、子供にとっては美味しいデザート時が親子の最高の気持ち交わる時ならば、皆が集まれる食事時は、例え昼食時であっても大事だということです。


朝日を参拝しないでも良いから、朝がくるという恵みを思い、家族と向かい合える恵みを思いながら朝食をゆっくりと皆で頂き、その後で御茶を頂きながら会話をして、

そして互いに一日が無事に過ぎるように祝福しあい、そしてそれぞれが出かけていくために、早起きはするものです。

これが、『早起きは三文の得』の本当の理由だと信じます。


そして、それは実は、経済発展途上にあった片側の教え、表に出された半端な道徳だと思います。
表立って出ていたものより、裏に隠されてきた事事を見なければ新たな時代は到来しません。裏を見る目を保ちたいものです。

裏の目。サイコロのようなものだ。冗談です。が、振りましょうか?
ポロ〜ン、ほら出た!


裏が出れば、早起きは三文の得が、早起きは三紋の徳_に変容する。
親子孫の三代に渡る家庭の紋の徳。
これからは親子の因果を超えた次元へと入りますが。

紋は、昔で言えば文という金銭の価値を越えます
これが気骨と精神のヤマト味噌です。肉を切らせて骨を守る!

紋は門でもあり、心に在るもんではなかろうか。ドラエもん、でもいい?
そのドラエもん依存症の紋は、ただの怠け紋かもしれないな。

者を「もん」という言い回しがあるのも、日本語の深さ。どんなもんに成りたいでしょうか? 家紋は先祖のもの。

新たな紋は心と脳宇宙と意識で織りなしていく。

それが今からさらに問われる新世紀だと、そういう門の門口に立ったのが、2012年、正式には12月12日の人類だったわけでしょう。

そうです、意識も発酵するのです。

納豆は糸を引きます。善玉菌の糸ですよ。

意識の糸も見えないネット網となります。

味噌も味噌になる前に、発酵し出せば大豆が糸を出すはずです。
樽の中でね。

樽は家庭。そして社会であり世界であり、地球。これが本当の「地球たるとはいかなる事か」をガイアは提示していると思えてきます。
(ジョークもほどほどにね、すんません、寸増せん。あら、ふふふ、品を寸も増せないの? 妻も笑顔でつっこめば、明るい家庭の三祖の香り、だな。

こういうことが、それぞれの家庭の匂いや味わいになるはずなのです。


それが、どうですか? 
そういった三紋が、幸せへの門が、夢のドラエもんが、ズダズダに破壊されてきました。

こういうことが日本精神の原点の崩壊につながってきた。

だから方向を決められない、自分をしっかりと保てない依存症ノビタと、
依存に応じるドラエもんが文句を言いながら、ますますノビタ人間を服従させてきたのでした。
ノビタは、ドラエ門が自分の内に在って、それを自分でくぐるしか無いことを知る新世紀にいます。


いくら神社へ御参りに行こうと、家庭という樽や、自身の意識活動が、ちゃんと役を果たしてないなら、なぜに神の道へと繋がることができるだろうか。

家庭に母親と父親が良心として、しっかりと在るなら、よっぽどの性癖は悪い魂でないかぎりは子はスクスク育つでしょう。育ったはずです。


神宮の存在がいらなくなる時とは、それぞれの家が宮になる時です。


先に家庭という樽と書きました。樽は、木に尊です。
どんな木が良いですか?

カバラの生命の木(樹)。聖書に登場するレバノン杉。檜。松。

あぁ、聖書には知恵の実がなる木(樹)もあります。


ですが家庭の木であるなら、一番にファミリ ツリーという家系図のことを覚えていたいですね。
(意識するだけで良いから、無闇に先祖供養せんでも良いから。)

命が連綿とつながれてきたことを見る家系図。
それは、まさに1つ1つの人としての気の実が見えて香るがのごとしで、その家系の樹になり得ます。

家系図をもたない貧しい家でも、過去帳を備えたか、記憶にきちんと留めて思い出しては話しただろうか。できたと思います。

文明の利器が無かった分だけ、家族が向かい合い思い出話などをできた。
また、それが楽しみだったでしょう。


爺婆や親は子供や孫にも語り伝えた。子供や孫も聞いた。
なぜなら文明の利器という誘惑が無かったから。

年寄りの話が何よりの童話であったり、今の劇画であったり、ラジオやテレビであったわけです。物知りの爺婆として、慕われたのです。


もしも意固地意地悪な爺婆でなかったらです。    

冗談です。

ところが、これからは、過去の流れから分断された家族が崩壊しつつある中で、個人個人の意識の発酵/発光が必須。

これは宇宙家族との再会をコールします。真のファミリーに再会できます。

なので、1人ぼっちの人がいたら、家族がばらばらの中で阻害されていても、
涙を流しながらでも良いから、自身を確かめるためにそれを体験しに生まれてきた、と思い込んで、
周囲を見るより自身をみつめて、意識をみつめて、意識の糸を伸ばして仲間や真の家族につながってください。


とりとめのない話でした。自身に言い聞かせながら書きました。
感謝します。



2012年12月21日が開けましておめでとうございます。



では、明日も生きていましたら、無事でしたら、
何かアップするやもしれません。
さようなら。




No comments:

Post a Comment