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「わたしたちは・・」
わたしたちは、何処から来て何処へ帰るのでしょうか?
かぐやは、遠い記憶をたどりながら、旅を続けています。
月を眺めていると、とても心が落ち着きます。
懐かしさすら感じて、時折涙がこぼれます。
かぐや姫は月からやってきた宇宙人だと言う人が居ます。
わたしたちは、古代、宇宙からやってきたのだと・・・。
月は本当に砂漠なのでしょうか?
そうだとしたら何処へ帰ったら良いのでしょう?
=========================ここには、想像ではなく、かぐやが体験したこと、記憶の中から掘り起こしたことだけが書かれてあります。
あなたは何のために生まれてきたのか?、あなたは誰なのか?人生とは何なのか等、あなたの疑問を紐解くヒントが隠されているかもしれません。
時折、訪れてみてくださいね。
「胎内の記憶」
母の胎内に居た時、ジサツしようと思いました。
6ヶ月めの記憶です。
その頃母はとても辛い毎日を送っていました。
夫は甲斐性が無く、何か商売を始めては借金を作り、
それが上手くいかないと分かるとふて寝を決め込み、
借金の返済は身重の母の両肩にずっしりとのしかかっていました。
その上、姑・小姑にいびられ、居場所もありませんでした。
米びつには米粒ひとつ無く、私の上に幼子が4人も居たのに、食べさせる物が何も無いのです。
母はひとり、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。
「この子達を殺してわたしも死のう」
母はそう考えていました。
ですから、私はジサツしようと思ったのです。
今ですら辛いのに、私が生まれたら、この人を絶望の淵に追い込んでしまう。
『私は生まれてはいけないのだ』、そう思いました。
この世に生まれないことが、私から母にしてあげられる唯一の愛の表現だったのです。
でも私はこの世に生を受けました。
母が、夫に頼らず毅然と自分の運命と闘うことを決めたからです。
母は脆い人ではありましたが、最後の最後にとてつもない力を発揮できる人でした。
私は胎内で母から勇気をもらったのです。
私がジサツしようとしたことを母は知りません。
知らないまま、様々な病と向き合いながら人生を全うして、後年旅だって逝きました。
時折、フッと線香の匂いがすることがあります。
私の傍に居ることを、母はこんな方法で教えてくれているのです。
母の愛は海よりも深し
今夜の涙は、感謝の気持ちです。
(*胎内では、言葉が言葉として聞こえるわけではありません。悲しみや状況が波動として伝わってきます。
お母さんが悲しむ時、赤ちゃんもその感情(波動)を共有しています。
胎教にクラッシックが良い、というのはよく聞く学説ですが、これは子供のためではなく、母親のためなのです。母親が穏やかに過ごさないと、へその緒で繋がっている赤ちゃんが、母親と同じように苦しみます。そして生後、子供に多くの影響が出てしまいます。わたしがそうだったように。)
*「がんに打ち勝つ方法」
(父の名誉の為に付け加えますが、母以外の人に対しては優しく、人格者で、周りからの尊敬を一身に集めていましたし、父親としても素晴らしい人でした。世の中の父親がみな彼のようであったら、と思わずにはいられないほどの人でしたし、母に対してもいつもこのようであったわけではありません。私は彼を父として選んで生まれてきて、本当に良かったと思っています。)
「果報は寝て待て、の間違い」
この世は、宇宙を含めて全てが「波」によって伝わります。
寝ているだけでは、波のたたない水面と同じこと。周りに影響を与えることはできません。自ら波を立てなければ、周りの人は、あなたの想いに気づかないばかりか、あなたの存在にすら気づかないかもしれません。ですから、具体的な願いを持ったら、それに沿って行動する(波を立てる)ことが、とても大切です。まず、声に出してみましょう。「私は○○します」。「私は○○になります」と、あなたの想いを声(言葉)に出してみましょう。言葉には、宇宙波動が載っています。肯定的な言葉を口にすれば、貴女の周りに肯定的な波が起こり始めます。逆もまた真なり。常日頃、否定的な言葉を口にしてはいませんか?または思っていませんか?たとえ口にしなくても、心で思えば同じこと。「思い」も同じ波なのです。
あなたが自分の夢を語ったとき、中には、「あなたにそんなことができるわけがない」と、否定する人が現れるかもしれません。でも、その言葉に耳を傾ける必要があるでしょうか?あなたにも分からないあなたの未来を、誰が言い当てることができるでしょう?もし、その人の言葉を信じて貴女の夢を諦めたとしましょう。その後、その人は貴女の人生を素晴らしいものにしてくれるでしょうか?周りの反応がどうであっても、その度に一喜一憂してはいけません。否定的な反応でも、あなたが上げた声に、誰かが反応したというその現実だけを、実体験として受け止めることが大切なのです。それは「穏やかな水面」に、あなたが初めて波を立てた瞬間なのですから。
初めの変化は小さくても、その行動を繰り返すうちに、波は大きくなり、やがて遥か彼方にまで届くようになるでしょう。その波を感じた人の中から、あなたの○○に興味を持つ人がきっと現れます。そして必要な賛同者が集まった時、あなたの○○は、現実のものとなるのです。果報(幸せ)は、寝ていてはやってきません。逆に周りの波をかぶって、アップアップするのが関の山。
「神さまとの出会い」
わたしは子供の頃、人を笑わせるのが大好きな元気一杯の女の子でした。同級生にも「かぐやは良いね、悩み事が無くて」と羨ましがられるほどでした。でもその実、人には見せませんでしたが、彼女たち以上にとても繊細な子供でした。ですから、毎日目の前で起こることが苦しくてしようが無かったのです。毎日刃物で身体をズタズタに切り裂かれるような痛みを日々感じていました。6歳7歳の子供が、生きることの辛さに、「こんなに苦しいならいっそのこと死んでしまいたい」と苦しむ姿など、想像できるでしょうか。でも私はそんな子供でした(その原因は母の母胎にいる時に起こったのですが・・・)。そんな時、ひとり海に出かけて砂浜にポツンと座り、神さまとお話しするのが常でした。神さまは、とてもやさしく私の疑問にひとつひとつ答えてくれました。
こんなお話をするのは、あなたに分かってほしいからです。「神は、天空にあるのではなく、あなたと一体なのだ」ということを。それを体感する方法はとてもシンプルです。
ただそう信じるだけで良いのです。
そうすることで自然に神さまとあなたとの回路が開かれ、一体であることを実感することができるでしょう。
そして、あなたは独りではなく、常に神さまの胸懐(むなふところ)に抱かれていることに気づくでしょう。自分の外側(占いとかチャネラーとか)に求めるのではなく、自分の内に求める。すべて、そこに在るのですから。
(この神さまとの会話には後日談があります。それはまたいつかかぐやとご縁の有る方に・・・)
*信じることでスプーンも飴のように曲がります。
コツは、「金属は硬いという固定概念を頭の中から取り去り、これは柔らかい」と思うだけです。
スプーンを曲げること自体は馬鹿げていますが、固定概念を取り去る訓練にはなりますね。神さまを実感するのと方法論は一緒です。「パラレルワールド体験?」
ある日、友達が言いました。
「この前、銀座でかぐやを見た」
銀座くらいは行くこともあるでしょうから、不思議にも思いませんでしたが、次の彼女の言葉にかぐやは混乱しました。
「でもあれは、かぐやじゃないんだよね。違うんだよな・・・」
「えっ、何?」
「うん、何て言ったらいいか・・・。顔も全体の感じもかぐやなんだけど、何かが違う。かぐやは髪を染めたりマニキュアしたりしないじゃない。でもその子はしてたんだよね。だから、かぐやじゃないと思って声をかけなかった。でも瓜二つだった・・・」
当時の私は、一言で言うと”地味”でした。
ワードローブを開けば、茶系の洋服ばかり。マニキュアも持っていませんでしたし、髪を染めるなど考えも及びませんでした。
友人が銀座で見た”かぐや”は、髪を少し赤く染め、赤いマニキュアをし、カラフルな洋服を着ていたのだそうです。
それだけなら、”世の中には似た人が7人居るらしいから”、で済んだのですが、後日、姉がこんな事を言い始めました。
「この前、銀座線の中で、かぐやに瓜二つの人を見た。
私だからあれは違うって分かったけれど、他の人には分からないと思う。それくらい似てた。何て言ったらいいか、足の形から何から全部かぐやそのものなんだけど・・・、何かが違う・・・。匂いっていうか、雰囲気?
あれは家族じゃなければ分からない。私だって思わず声をかけそうになったんだから」
そんな話しが、その後も続きました。
別の友人(A)が言うのです。
「先週の○日の○時頃に、かぐや、井の頭線に乗ってた?」
「ううん、家に居た」
「そうだよな。かぐやがそんな時間に出歩くわけないよな。やっぱり勘違いだ」
A曰く、その日は渋谷で飲んで遅くなったので、友人(B)が彼のアパートに泊まることになった。下北沢の彼のアパートに着くとBがそこにあった写真を指差して、「この子、お前の友達?なんで紹介してくれなかったんだよ」、と言ったのだそうです。
Bが言うには、かぐやが、井の頭線の同じ車両の、目と鼻の先に座っていたらしいのです。
Aは、その女性がかぐやなら声をかけてくるだろうから、「他人の空似だろう」と言ったのですが、Bは「絶対この子だから、本人に聞いてみろ」としつこく言うのだそうです。
でもかぐやは、その日のその時間、自宅に居て本を読んでいました。
実は、その時から数年遡るのですが、ある先輩がかぐやのことを、成城学園前で見た、と言ったことがありました。
その先輩は声をかけたのですが、かぐやが振り向きもせずに行ってしまったと怒っていて、大変困ったことがありました。
かぐやは成城学園に行っていないのです。
”下北沢話”の後、数年して今度は、”かぐや”は秋田に現れました。もちろん私は行っていません。
またある人(かぐやの知らない人です)が、”かぐや”と代官山のとある店で会って、うんぬんと言う話まで人づてに聞こえてきました。
その頃、かぐやは確かに代官山に住んでいましたが、保守的な町の保守的な家庭で育ったせいで、ひとりで飲食店に入ることはできません。
でも、その”かぐや”は、ひとりでカウンターに座って居たそうです。
土地勘の有る方ならお分かりでしょうが、どうもその女性は(複数人かもしれませんが、同一人物と仮定すると)、成城学園前から小田急線に乗って、下北沢で井の頭線に乗り換え、渋谷から銀座線に乗って銀座に行くルートが生活圏のようなのです。
当時はこの現象を、”ドッペルゲンガー”かと思い、少し嫌な気分だったのですが、今考えると、ドッペルゲンガーとは特徴が違います。
ドッペルゲンガーは、本人とまったく同じ物を身につけ同じ場所で暮らし、周りの人とは口を利かないのだそうです。
本人が自分のドッペルゲンガーと目が合うと、その人は亡くなってしまうのだとか。
ですが、かぐやのケースは、私は地味ですが、彼女は派手好みです。生活圏も違います。
私はお酒を飲めませんが、彼女は一人でそういう場所へ出掛けて行くくらいですから、お酒は好きなのでしょう。
秋田の居酒屋や、代官山の和食の店に現れた”かぐや”は、周りの人たちと楽しく話しをしています。
みんなが目撃した”かぐや”は、顕かに私とは嗜好や生活習慣が違います。
最近、私はこの一連の現象は、パラレルワールドなのではないかと考えています。
米マサチューセッツ工科大学の天文学者マックス・テグマーク氏は、最近出版した論文でこう言っています。
「そのような別の宇宙に存在する”もう1人のわたし”がいる可能性は、推論的な現代物理学さえも必要としない。
宇宙は無限で均一に物質によって満たされているということを示す最近の宇宙観測から、それは簡単に導かれる」
学者によるパラレルワールドは、テグマーク氏のように、自分と同じ人間が存在する世界が宇宙のどこかに有ることを指しますが、かぐやは、この地上にもパラレルワールドは存在するのではないかと思うのです。
私たちが生きているこの次元と、パラレルワールドの次元の周波数が違うので通常は見えないのでしょうが、微妙な違いであれば、それらの世界が、ある瞬間クロスしてしまうこともあるのではないでしょうか?
そうでなければ、この一連の現象を、どのように理解したら良いのでしょうか?
”この世には似た人が7人居る”というのも、実はそっくりさんのことではなく、パラレルワールドに存在する、ある人物の別の存在を見たと考えた方が、自然なような気がします。
ムーからの使者
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