Sunday, February 10, 2013

玄徳道の波動が安定感を見せている


どんな道でも行き着く先は1つ。探究道も脱却道も宇宙道も趣味道でも色の道でも、なんでも究極は1つへと結ばれる。人間道は体験道だからのぅ。

赤児のように1から体験する人間道は、オーストラリアの、真の霊気探究者であり江戸と明治以前の真の修験道を研究するというジュディさんが書いているように、1のレベル(最も低い)道なのだ。だが良い。
環を観じれば、1の尻尾は頭の口という愛情の口にリンクされてあるのが解る。

1は一番に宇宙の父母_根源_核なるエネルギーの最も近くに置かれているということだ。
末の乳児のように、皆が心配して愛して見守っているということだ。
つまり、地球人は、みな、指しゃぶり乳飲みの赤児だということだ。

そして、In Deep に書かれてあるように、7才で大人なのだ。
つまり、7度目の今の3600年目、それが7才ということにもなる。

そうして、12/21/2012は無事に超えた。
やはり7才まで達したからだ。これからが本育成ー自分で歩む本番なのだ。

大人になろう、地球人よ!!!
おおらかに明るく、恐れず悲観せず、過去の棘の道茨の道は、もはや幻想でしかないこと、名残の残像でしかないことを得心するための2013年である。

はっきり言えば、坐という座禅さえも瞑想もヒーラーも教祖も宗教も、机にかじりついての勉強も学校制度も、まだまだあるが
今までの精神向上における道という道_これはある意味で我々のオモチャであった_や法律などのルール上にある全てが不必要となり
7才の人類に見合う変化をし、世界は変容すると、強く確信している。

” 7才になった。母さんの写真とオモチャを全部、土に埋めろ。”

母さんの写真とは、まさに、
” 五次元に上昇する前の母なる地球 ” のことだ。

過去の良い生活や逆の不幸だった時代の_”写真”_に囚われるな!
ということだ。

だが、以下を転載しました。読んで、どう感応するかは、人によって違います。

自分は、年のせいもあるか、坐にまだ囚われている波動も感じましたが、安定した波動が交差しながら観えます。骨、気骨を感じました。

またまた、In Deep の記事を...交差点十字(気の骨十字と云えるかもしれぬ)を基点にして縦横に走るが可能になる思いの交差を思い出します。

(111の2/9のサイトにアップされています。読んでみてください。)

さて、稲荷などは気まぐれに守護するような記述もありますが、人間を観て守護するかしないかを決めるのは、神さんたちの勝手でしょうよ。

気まぐれでも、気にしていてくれるとは、有難いことです。否定的にいかないで、明るく捉えていきませんか。そういう意味では、一理ある記述も多いのです。( 伊勢白さん、過去のこととしても、霊能者を叩きすぎましたか...善悪は無い宇宙の真の理は深い、と解っておられたら、叩き過ぎるのは、むしろスサノウ様の道に外れるかと。)



守護霊 守護神への依存からの脱却。
そして真の道。脱却道。

スピリチュアルや多くの宗教、多くの書物には、人間を守る、守護霊、守護神の存在が書かれています。そして、多くの人間がそれを肯定し、信じ、自分を守る存在に感謝を捧げておます。

想いおこせば、私が小学生の時に漫画本「うしろの百太郎」(つのだじろうさん作画)を読んで。感銘し、自己を守る霊的な存在、守護霊を知りました。霊能力者と称されるワールドメイトの深見東州氏、伊勢白山道 リーマン氏、下ヨシ子さん、江原啓之さんもその存在を認めておられます。そして、言わば多くの霊能力者が認め、認めなければならない存在でもあります。そして多くの霊能力者はその存在を先祖霊とされておられます。そうでないとされる方もいますが。

その中で、純粋に霊的守護に頼らずに、感謝のみを捧げ、その感謝磁気により物事の改善をはかり、道を開こうとする伊勢白山道は、お金もかからないし、かなりまともです。しかし、リーマン氏の欠点は他の霊覚者を認めずに排斥し、自己の教えを傲慢さで押し進めて行くことであります。誠に残念です。人の正義、自分の正義、立場により変り。神は善悪をも含むのです。

出口王仁三郎氏は天の使命により守るのが本守護神、勝手に守り、不幸を与えるのが副守護神(はぐれ龍 稲荷 蛇、祟り霊も含みます。)と立て分けられております。

確かに守護される精霊の存在はあります。神仏縁より来る守護眷属の存在です。多くは神社仏閣の神に仕える眷属界より来ります。そして、御先祖の存在。霊脈を宿す人間にとっては必然の守護であり、多くは先祖の御徳の発露にあるようです。

人間の欲望は果てしなく、守護霊をより強固にしたいと願い、幸運、健康、金運を求めます。悪魔邪霊からの追跡、不幸から逃れようと守護たる存在を強くしたいと考えます。
多くの霊能力者はその欲望を受け入れ、有料無料問わずに、自己の霊能により、龍神を憑け、仏を憑け、ワンランク上と称した守護霊を憑けます。そして、多くの人はそれを信じ、それを授けた霊能力者を信じ、依存し、さらに守護霊守護神にも依存します。

人の幸せとは、自らが道を歩み、自己の小天地である、宇宙を顕わし努力し、進歩する事にあります。苦難困難を乗り越え、懸命に歩む姿が惟神の道であります。

真実、守護霊を強くしてもらった云々とは実はその霊能力者による幻想でしかありません。伊勢白山道氏はそれを使い魔による自作自演と呼ぶでしょう。霊能とは想念の世界です。心の世界、幽界です。どんなに優れた霊能力者であろうとも、神が定めた守護なる存在を替える事は出来ません。人の自己意識を大切にされる神です。人間により、霊的存在を強固するなどこの天地間、無為自然の摂理、天理が定まっている以上ありえないのです。

神がその子を守るために守護たる精霊を顕わした言霊を発したのは自己進歩を手助けする為の愛情であります。それは感謝しようがしないが守護に関わりはありません。しかし、感謝する心は自己の不明(自分の弱い心)を包み、自己の心を広くする御徳を呼びます。ここで云う守護の特色は知らざれど守るのです。どんなに悪人であろうが、善悪の垣根はありません。

損得を超えた存在に、幸運、福徳を願い守護してもらおうと損得勘定で守護霊、守護神に少しでも依存する心は欲心であり、逆に守護する存在の心から離れます。人の道は少々の依存も必要ですがあくまでも自立しなければなりません。

では吉凶とはどこから来るのでしょうか。修養、修道から来るのです。人には気が備わっています。今の人は趣味、娯楽、快楽、仕事、学歴、見栄に気を使い、その損耗は激しく、睡眠による気の回復は追いついていません。木に根元が有り、根が栄養を吸収し、幹を太く大きくしようとしても、枝葉が多過ぎれば幹は太くなりません。根元の栄養とは睡眠、先天坐であり、枝葉とは趣味娯楽快楽見栄です。
修養とは修道とは、坐であり、学問(道院では大学 中庸)であります。学問により、徳を学び、思いやりを知り、妄信を正せば、道と合し、気を正します。是を「渾厚の気」と呼びます。渾厚の気が厚くなれば多くは福徳に満ち、霊が固く凝り、神が固く完(そなわ)ります。ここに至り、人の吉祥は神仏等、守護される存在など関係がなく、人が自らの修養に因る事を悟るのです。


「かつての聖人、覚者達には、神仏に依存した人は一人もいないのです。そして、特別に神仏に守護をされて方も一人もいません。すべては自らこれ(渾厚の気)を得て、自らこれを成し、自らこれを修め、自らこれを養い、自らこれを悟るのであります。」



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