1/11/2013は、こういう日なのか。日に何度も記事を編集してしまいました!
今回はタイトルの通りです。新約聖書が後世に人の手によって改ざんされたと信じてきましたが、少し考えてみることができました。
何度か読み直して、さらに自身の心とも対話してみるつもりでいます。
1〜4まで連載されていましたが、1は前置きでもあり、映像が多いこともあり、また長い記事ですのでアップしませんでした。
最後に1を読んでもかまわないと思いますが、全文をあちらで読みたい方などは、どうぞ右をクリックして訪問されてください。http://sonaeyotuneni2012.blog.fc2.com/blog-entry-10.html
以下に2、3、4を転載します。
神の計画2〜4
私達、人類は何を求めて生きるのでしょうか?
もう少しマクロ的な見方をすれば、私達は何を目指して生きるのでしょうか?または、貴方は私は、何を求めて生きているのでしょう?
その答えは、恐らく「幸福」を求めて生きているのではないでしょうか?
では、人間の真の幸福とは一体何でしょう?
好きなだけ使えるお金を得る事なのでしょうか?
地位や名声を得る事なのでしょうか?
もし、それが幸福であるなら、あなたがこの世に生まれた意味と生きて行く目的の答えが、お金と地位と名声にある事になります。
しかし、それが本当に幸福と言えるのでしょうか?
もしそれが幸福であるとして、お金を一生懸命稼いで貯金が5億になった時に突然死んでしまったら、あなたはどこへ行くのでしょうか?又どこで目覚めるのでしょうか?
天国に行くのでしょうか、又は地獄に行くのでしょう?それとも無になってしまうのでしょうか?
普段は余り考えない生きると言う根本的な問題について1度真剣に考えてみてはどうでしょうか?
私の以前の記事で聖書は単にキリスト教と言う特定の宗教の書ではなく、聖書は聖書であると書きましたが、聖書とは独自に神が人類に与えた預言書であり、私達人類に課せられた最後の終末に対してどう生きるべきかを説いた書です。
聖書は、旧約聖書27巻、新約聖書二七巻、計66巻あり、預言・歴史・律法・詩歌と多様なカテゴリーが存在しています。
そして、この書は1600以上の年月をかけて約40人の人々の手を通して記された書です。
普通に考えて1600年の歳月がかかれば、そこに記される内容に矛盾点が生じたり、ましてや約40人の人間がそれぞれに記す分けですから、そこには統一性が存在する事は不可能です。
しかし、聖書には矛盾点や統一性が損なわれる事なく書かれているのです。
そして、この聖書に対峙しているものとして仏教がありますが、仏教での教えは人間が幸福になれない原因として「欲」と「煩悩」を上げています。
つまり、我欲を捨て去り、人間の「業(カルマ)」を清算しなければ幸福にはなれないと説きます。
ですから、釈迦は弟子達に業渦巻く人間社会から離脱し出家を促したのです。
釈迦が教えたこの業ですが、この業を積んでしまう原因は、この物質文化にあって根源的なものに「お金」の存在があります。
それからすれば、釈迦はお金を業として指しているとなります。
しかし、これにはちょっと無理があります。
それは何故かと言うと、今の地球文明・地球学びの舎は「物質文明」として始まったからです。
つまり、物質を諸悪の根源であると決めたなら、今の文明は始まらなかった事になってしまうのです。
しかし、聖書では物質の根源的存在である「お金」を悪とはみなしていないのです。
ただ、悪いのは、金儲けを人生の目的としたり、自分だけが富を独占する事を悪とみなしているのです。
金儲けは、神と隣人の為に活用する1つの手段であり、1番重要な事はお金に生きる事ではなく、お金を生かすなら悪とみなしていないのです。
そして、仏教では欲と煩悩と言う業が人を不幸にすると説いているのに対して、聖書は「罪」が人間の不幸の最大の原因と考えられているのです。
つまり、宗教的な罪が人間を不幸にすると言っているのです。
皆さんは、民と言う漢字の意味をご存知でしょうか?
藤堂明保氏 著 『新漢和大字典』(学研)では、「ひとみのない目を針でさすさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意になる」と書かれています。
そして、この民が下にある漢字に罠と言う漢字がありますが、目の見えない者に何らかの仕掛けをした事から民の上に罒と言う字を配して罠と言う漢字が出来たのです。
そうであるなら、罒は仕掛けとか網の意味を成します。
罪と言う漢字をよく見て下さい。
罒の下に非と言う悪を表す字が配置されています。
つまり、聖書の仕掛けにかかった者が罪な者なのです。
更に、罪と言う言葉を英語で書くとSINとなりますが、 SIN は、真ん中にI(私)があって、その両側にSとN、つまり地球磁場の南北があります。
世界の真ん中にI(私)がいるという、利己的、また自己中心な意味を指しています。
これは、神の預言の書である聖書の教えを忘れた人間の姿でもあります。
神を忘れ、利己的で、自分の欲望を充たす事しか頭にない生き方が罪であると言う意味です。
(マコ7・20~23)
「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま(ねじけた考え)、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり(傲慢)、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」。
これをお読みになれば分かるように、聖書でも欲と煩悩についてこれらを悪とみなしていますが、唯一違うのはこれらを「罪」としている所にあるのです。
「罪」には、欲と煩悩を超えた英知の存在と神の壮大な計画があるのです。

では、神は聖書にこれらの事が罪であると設定し、その罪がある限り人間には幸福がないと言っている背景には何があるのでしょうか?
聖書は、約40人の人々によって書かれましたが、その中にあって新約聖書はイエス・キリストと弟子達によって書かれました。
そして、宇宙からの黙示録で言えばイエス・キリストは金星の大長老であるサナンダになります。
サナンダがイエス・キリストであるなら、聖書は彼が神から与えられたメッセージを伝えたと言う事になり、サナンダから受け取ったメッセージを書いた宇宙からの黙示録も又神から与えられたメッセージになります。
つまり、聖書と宇宙からの黙示録はページ数と編纂に関わった人数こそ違うものの、共通の書、あるいは宇宙からの黙示録は聖書の参考書的な存在でなければ辻褄が合わないのです。
私自身は、既に宇宙からの黙示録(オイカイワタチ)が聖書の参考書であると言う確信に至っておりますので、聖書に関する記事を書く背景にその確信があると言う事をご承知置き下さい。
さて、前記事の続きですが、神が聖書に罪を設定し、その罪を犯した者は最後は救わないと預言者を使って聖書に書かせている背景には、神が計画的に罪を創り出し罪を犯す様にこの文明を創ったと言う事です。
神が私達が知りうる限りのこの宇宙において、最上の存在であるなら神は全てを創り出す事が出来る存在です。
そうであるなら、神は自らが伝えている人類が幸福に暮らせる世界を創造し、そこに人間を住まわせれば良いわけで、わざわざこの様な不条理極まりない世界を創って人間を住まわせる事はしないはずです。
つまり、人間の世界に善悪・上下がある世界を創る必要はないのです。
それなのに、わざわざ罪を創り出し、人間がそこに生きて行かなければならない世界を創造する必要がないと言う事です。
しかし、神は人間の世界にわざわざ罪を創り出し、まるでわざと苦しんで生きなければならない世界を創造したのです。
何故、神はその様な世界を創造したのでしょうか?
言い方が粗野で申し訳ないのですが、神は人間を中心とした「進化ゲーム」をさせているのではないのでしょうか。
別の言い方をすれば、あちこちに罠をしかけた険しいジャングルに人間達を放ち、最後に何人の人間が豊かな水溢れる緑の大地にゴール出来るのかを楽しみながら見ていると言う事です。
そして、その罠のベースが物質文明であり、物質文明はたくさんの罪と言うトラップ(仕掛け)生み出すと言う構図です。
そして、私達人間はその罪と言うトラップを1つ1つクリアしゴールを目指して進んで行くのですが、神はトラップをクリアする道具として「善悪」と言う概念を人間に与えたのです。
つまり、それが「天使」と「悪魔」のささやきになるわけです。
(マコ7・20~23)「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま(ねじけた考え)、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり(傲慢)、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」。
これを読めば分かるとおり、神は罪は人から出ると明言しています。
つまり、神は諸悪の根源は全て私達人間の中にあり、それが表に出て来て世界を蝕んで行くと言い切っているのです。
そうであるなら、神は自らが創り上げた進化ゲームに人間がエントリーする時点で罪と言うペナルティを人間に課してゲームを始めた事になります。
神は、自らが望んで本当にこの様な世界を創造したのでしょうか?
追記
惑星二ビルが太陽系を離脱するまで残すところ約1ヶ月となりました。
オーストラリアで史上最悪規模の大規模な山火事が発生し、現在も各地で火が燃え続けており、「原子炉がある建物にも火がついた」との情報もあるくらい、現地は大変な事になっていますが、恐らくこれは二ビルが関係していると思われます。
そして、かの2012年12月に人類が滅亡すると、茶化したオーストラリア首相のギラード氏も「史上最悪の恐れがある」と述べていますが、被害が彼女の国で起こっている事を見ると、日本で言う所の「バチガアタッタ」になりますね。
二ビルに関しては、驚くべき情報を多くの方達が発見しさまざまな方法でそれを伝えていますが、こちらでは14日にそれらをまとめて転載・引用させて頂き記事にまとめようと思っております。
とにかく、前ブログの最初の記事にある様に、「そなえよつねに」の精神で準備(は怠らない様にされて下さい。
神は、自らが望んで本当にこの様な世界を創造したのでしょうか?
神は、全能であり全知であるのですから、この様な不条理な世界を創造したと言えますが設定している目的とゴールは、それとは逆に私達人間が本当の幸福野中で生きられる世界を用意したのではないでしょうか。
少し、先走りますが、今書いている神の計画シリーズを読み終えた後に聖書からいくつかピックアップして読んで頂こうと思っていますが、そこに書かれている意味が驚く位理解出来る様になっていると思いますので、お楽しみに。
神は、最終的に私達人間が真の幸福で生きる事が出来る世界を用意したとは言え、現在の世界はどうしてこうも不条理な世界になっているのでしょうか?
その原因は、オリオンとルシファー(サタン)と言う2人の天使が堕天使になった事にあるのです。
堕天使とは、元々神の意思を人間に教える導師的な仕事を仰せつかった天使が神の事を信じる事が出来なくなり、悪なる存在に堕ちた天使の事です。
神は本来、人間に2つの愛とうるおいを与えて幸福な世界に住まわせようと、地球世界を創造しました。
そして、その2つの愛とうるおいを人間に与える御使いとしてオリオンとルシファーを人間界に降ろしました。
天使オリオンは、「物質により神の愛とうるおい」を人間に与える使命を授かり、天使ルシファー(サタン)は「無(物質に対する無・形無きもの・心・精神)により神の愛とうるおい」を人間に与える使命を持った天使でした。
しかし、2人の天使は神の創造と進化の試練の場において、のんきに神を信じ、神の霊感を受ける事を忘れたのです。
つまり、神を待っているだけで本当に良いわけがなく、何かしなければ人間を幸福には出来ないと言う焦りと苛立ちから神の霊感を失い、そこに自我の愛を生む事になってしまったのです。
それが、堕天使になってしまった理由です。
以下宇宙からの黙示録より抜粋--------------------------------------------
自我の愛は神の霊感を受けたものではなく、我から出たものである。
オリオンは神の霊感のままに物質を語らず、自我欲のままに物質を語って、ついに悪へと堕ちて言ったのである。
オリオンは神から授かった物質を語る「運」(物質を与える役目)を自我愛、自我欲に使って物質を発展させ、物質によって人類を幸福にしてやろうと次々と物質を人類に与えてきた、ところが、地球と人類は幸福になったような錯覚をしただけで一向に本当に幸福にはならないので、オリオンはさらに一層多くの物質を造る欲望の霊感を人間に送った。
オリオンの霊感を受けた地球人も、正しい生命進化の道を誤り、我欲の物質文化の繁栄に大拍車をかけてきたのである。
これは、オリオンの思うツボであった。
オリオンは、人類を物欲の囚となし、地球と人類が神から離れるように仕向け、地球と言う遊星とそこに住む人類を掌中に収めんと企んでいるからである。
そして、それはオリオンの宇宙征服の一環なのである。
ルシファーは心を語って神の愛とうるおいを与える使命を授かった天使であったのに、オリオン同様のんきを忘れ、自己の力と心を過信し、宇宙を我力で支配出来るとうぬぼれた。
ついに、ルシファー(サタン)は神の本源に反逆を企て、神からの霊感を失った。
そこに自我愛が生じ、自我の愛は宇宙支配の欲望となり、その欲望を達成するための手段として、神の御名を利用するようになった。
即ち、神を語って自我で人類を救おうとしたのである。
それは、神を語ることにより人間をおのれの支配下に置くことでもあった。
----------------------------------------------------------------------ここまで
どうでしょうか。
今の世界をよく思い浮かべて下さい。
世界を動かしている中心にある、物質と精神の両方に歪みが生じている原因がよく分かります。
つまり、オリオンとルシファーの霊感を1番強く受けた人間が、今の世界を作り出したと言うわけです。
では、このオリオンとルシファーの霊感を1番強く受けた人間は一体誰だったのでしょうか?
ローマ人への手紙3章23
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」
ローマ人への手紙3章9~12節
9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
ローマ人への手紙3章13~14節
13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
ローマ人への手紙3章15~17節
15「彼らの足は、血を流すのに速く、16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
17 また、彼らは平和の道を知らない。」
ローマ人への手紙3章18節
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
少し余談ですが、私も含めさまざまなブログ等で取り上げられ、興味をそそられる陰謀論やNWO(イルミナティ・フリーメーソン・スカル&ボーン)等々が行っている罪が世界に溢れていますが、これも罪があるからこそ価値ある情報になるのです。
そして、更に突っ込んで言えば、オリオンとルシファーが神から与えられていた2つの使命に関わる事こそが、陰謀論等々としてもてはやされ、情報と興味は尽きる事のない欲望と化しているわけですが、その事に振り回されていないか?真に受け取る事や、真に伝える事は何なのか?それはどう言う事なのかを1人1人がよく考えなければならない「時」が今だと言う事を忘れないで下さい。
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