Wednesday, January 2, 2013

温故知新に在り•目覚めよ日本人!から一月一日の記事_転載が本日になりました




                霊主体従に向かって

あなたの依所(よりどころ)は、何んですか。

あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか。


このブログに初めて来られた方は下記リンクより先にお読み頂く事をオススメ致します。

温故知新・2012年アセンションに向かってブログ

私の記事の転載・引用は全て許可無くお使い下さって結構ですが、1つのお願いとして記事ブログリンクを明記して頂ければと思います。

http://sonaeyotuneni2012.blog.fc2.com/blog-entry-2.html


新年 明けましておめでとうございます。

2013年が始まりましたが、今までの人生の中でこんなにも全く正月を感じない年明けは初めてです。

皆さんは、どうでしょうか?

今年もつたない文章ではありますが、私なりに記事を書いて行きますので、本年も宜しくお願い申し上げます。

日本神道の教えのなかに、「霊主体従」と言うのがありますが、日月神示では、「霊主体従」から「体主霊従」の時代を経て、半霊半物質の「霊体一致」の時代に進化するのがミロクの世だと書かれています。

それからすれば今の世は、まさに「体主霊従」です。

この「体主霊従」については、温故知新・アセンションに向かってブログでも書いた事がありますが、一言で言えば「物質主義」の事を指します。

物質主義とは、私達の体も含め、目に見える物が全てであり、目に見える全ての物に主観をおいた世界の事です。

お金・食品・あらゆる品物・言葉・映像と絵画・頭からつま先までの肉体、これらに意識の主観のある世界です。

一方、「霊主体従」とは、心や魂を中心に置き、物質的な物や肉体的な物は二の次であると自覚して生きて行くと言う教えです。

私が思うに、さすがに神道はバランスがよいと思います。

ほかの教えのように、霊主のみだけでなく、肉体をもって生きている限りは、物質的なものも必要なのだといわれているわけですから。

宇宙の法則とは、すなわち見返りを求めない、無償の愛であり、霊主の事だと思います。

しかしながら、現在の地球の法則とは、これとは真逆で見返りを求める事であり、体主霊従の世界になってしまったと思うのです。

宇宙の法則を主体として、地球の法則を従として生きる世界に1日も早く進化する日が訪れる事が私の希望であり、願いです。

今の社会は、見返りを求める事が多い世界です。

仕事にしても仕事をした代償として給料と言う見返りをもらいます。

そして、毎日の生活の中で人に何かをしてあげたら、感謝と恩返しを求める人は多く存在しています。

打算だらけです。

遥か彼方の世界におられる神は、感謝される事も参拝される事も求めていないと思います。

太陽のように、ただ在って、感謝されようが暑くて文句をいわれようが黙々と光り輝いて、命を育んでいます。

善人悪人など関係なく、すべての命を平等に照らしています。

無償の愛を体現しています。

一方で私達人間はどうかと言えば、この世界で生きている限り、宇宙の法則そのままに純粋なだけでは生きにくいのが現実です。

何故なら、この世界はある一握りの人々が作り出した物質文化そのものであり、その為により多くの物質を得る事が人々の目標となってしまっているからです。

米国の某教授によれば、現代のアメリカは、下記の四つの階級に分かれているそうです。

この新たなカースト制度は、既に全世界に普及しています。

支配者階級国際
エリート銀行家、多国籍企業の経営者、王侯・貴族から成る、人口の1%にも満たない特権者。

執行者階級
支配者階級の利益を守るため、それなりの“報酬”を与えられて特権者の意思を実行する代理人。

奴隷階級
社会の大多数を占める、支配者階級・執行者階級を支えるよう教化された働き蜂集団。

不可触民
社会に寄与しない底辺層。彼らには必要最低限なモノが与えられ、大抵は無視される。 

私は、よく「私達は、鎖に繋がれていない奴隷」と言う表現を使いますが、上記でも同様に私達は奴隷階級に属しているのです。

勿論、このブログを読んで下さっている中には、支配者・執行者階級の方もいらっしゃると思いますが民主主義よろしく多勢の事を指していますので何卒ご了承下さい。

こんな物質文化の世にあって、世の為人の為に生きる事を掲げてしまうと、いつのまにか最初は純粋だった心が気付かないうちに淀んでしまう事が起きて来る場合があるのです。

心の奥深い所にに「傲慢」という種子が芽を吹いて来るのです。

こんなにしてやったのに、「何で感謝しないのだ、もっと感謝の気持ちを形にしろよ」と言う気持ちです。

「徳積み」も、人の知らない所でこっそりと寄付をしたり、世の為人の為にする「陰徳」が本来のあるべき姿です。

誰にも気付かれる事なく、日陰から相手が喜んでくれる姿を見るだけで満たされる心の持ち主であれば、あの世でも賞賛されるでしょう。

私などは聖人ではありませんので、打算と見返りを期待する心があります。

けれども、私が何かした事に対して、感謝の言葉や物を贈られても心底嬉しいと思えない人間なのです。

感謝します!有難う御座います!と言われても、私が勝手にやった事なので・・・やりたくてした事なので・・・勝手にしたかったので・・・と思ってしまうのです。

それでも、相手が喜んでくれたら私も嬉しいのですが。

嫌々した事ならともかく、私がしたくてやった事は、私自身の我ですから、どうして見返りを求める事が出来るのでしょうか。

感謝の言葉や見返りを求める人は、本当はしたくないのにしているから相手に感謝の言葉や見返りを求めるのではないでしょうか。

好きでしていることで見返りを求めるほうがおかしいと思いませんか?

なるべく純粋に世の為人の為になる様な、自分の好きな事を見つける。

そして、それが結果的に誰かを癒したり元気づけ、喜ばせる事が出来たら、そこには見返りを求める事がないのです。

それが「霊主体従」を生きる事の1つだと思うのです。

しかし、世の為人の為に何かをする事だけが、尊いわけではないと私は思います。

なぜなら、世の為人の為になる事をした事が原因で、癒され幸せになった人から自らが無形の愛と力を同じ位頂いているからです。

自己犠牲になる事が、自分にとって嬉しい事であるなら自己犠牲すればよいのです。

あちらの世界では、必ず最大の賞賛を浴びることでしょう。意地とか世間体などで自己犠牲に甘んじるならば、ど

んなに社会的に評価されたとしても、あの世では落第生の烙印を押されてしまうと思います。

自分がやりたい事と、やらなければなならない事は違います。

そして、日月神示でも言われている「霊体一致」を実現するには、まず「霊主体従」が達成出来なければ不可能だと思います。

今の地球で生きている目的は、霊主体従の実践と経験をするラストチャンスなのです。
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真とは?
「違う登山口から登ってもたどり着くのは同じ山頂である。」



★地球人類全てが1日も早く目覚めますように★
★世界人類が平和でありますように★


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