Tuesday, January 8, 2013

姓:氏とは歴史を知るにつれて真を増す


以下に転載してみました。楽しんでください。


札場靖人の「あなたのパワースポットはどこ?」 第13回/山田さんのルーツは結構古いことにびっくりする

200910210101.jpg山田[山太・山多・矢俣・矢満田]
山田さんのルーツは結構古いことにびっくりする
 山田姓は日本を代表する地形姓の一つである。中世以降、全国各地に約2000あるといわれる山田地名から姓がぞくぞくと発生したので、山田姓のルーツもそれに応じて多いようだ。またこの山田姓は単に数多くあるという以上に、任意の姓をあげる場面の例として、必ずといっていいほど“山田太郎”の名が使われる。どうやら、日本を代表する姓は“山田”なのだといえそうだ。
 ところが、平凡な姓とも思えるこの山田姓にも、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)などという、いやに長い名前を持つ有名人物が古代に登場してくるのだから一筋縄ではいかない。山田姓はけして単純な名前ではないし、その発祥の歴史もかなりの古さと格式を誇っている。
──奈良時代では、葛城氏の一族である山田直(あたい)、漢の帰化系氏族で河内国交野郡を発祥とする山田史(ふひと)、中臣氏一族で讃岐の山田県主(あがたぬし)、そのほかにも山田造(みやつこ)、山田連(むらじ)など有力な山田氏族がいたという。

 戦国時代には、平城天皇第五皇子山田皇子の後裔と伝えられる、山田城主の山田道安が奈良の大仏殿を補修している。山田氏の本拠地には岩掛城(現天理市山田町)があって、山田古城と呼ばれていた。


蔵輪寺



第18回/木村さんのルーツは紀氏か藤原秀郷か?

200912190101.jpg木村[木邨・木邑・嘉村・季村・樹村・貴村・城村・帰村・基村・岐村・岐邨・奇村・鬼村・喜務良]
木村さんのルーツは紀氏か藤原秀郷か?
 夕方近く、偶然いつもの居酒屋の前を通りかかると、もう店が開いていたので、ひょいと覗いてみた。カウンターの向こうで女将がなにやら熱心に見ている様子。女将の視線を追えば、テレビで大相撲の最中であった。私は挨拶もそこそこにカウンターへ座って大相撲観戦に加わり、当然のようにビールを注文した。
 一面に牡丹、もう一面に唐獅子の彫金が施された白檀製の軍配が上がって取り組みが始まった。私はビールのグラス越しに上目遣いで取り組みを見ていた。
女将はそんな私に、
「ねえ、あの一番偉い行司の人、木村庄之助って言うんでしょ?」と声を掛ける。

立行司は代々木村庄之助と言って、いまは三十何代目かのはずだよと、私は答えるのであった。
「そうすると木村庄之助さんのルーツの木村庄之助は誰なの? でも変ねえ、庄之助という名前は襲名するわけでしょ、その場合でもルーツは初代の庄之助なのかしら?」

 ここの女将はいつも理屈っぽい。さてなんと答えようかと考えた。とにかく、行司の木村家の創設は寛永(1624年-~1644年)年間の松代藩真田信之の家臣である中立清重だと言われているのだが、一般的な木村姓のルーツは遥か昔に遡れそうである。

 ──まずは、木村氏の血筋は出雲神話から始まる「神(じん)」氏一族とも言われているし、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるようだ。


近江国蒲生郡木村発祥の木村氏は、紀朝臣(きのあそん)成高の後裔。また、同じ紀氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏流の木村一族はつとに有名で、佐々木氏の祖源成頼(なりより)から六世の佐々木成俊が、近江国伊香(いか)郡木村に因んで木村と称したという。豊臣秀頼を守り、真田幸村らと徳川の大軍に対し力戦奮闘した木村重成や加藤清正の筆頭家老である木村正勝はこの一族の出と言われる。
 また、下野国都賀(つが)郡木村を発祥とする木村氏は、藤原北家藤原秀郷(ひでさと)の末裔で、足利有綱の五男信綱が木村姓を称したといい、ここから陸奥国五戸の木村氏も生じている。
さらに、徳島県麻植(おえ)郡鴨島町山路に、平康頼(やすより)の流れを汲む木村氏が生まれている。他にも、紀伊の名族鈴木氏流、古代名族日下部氏流、服部氏流、千葉氏流などがあり、それらの支流もきわめて多い。
 

──木村姓のルーツに関連した土地にはどのような場所があるのだろうか。












__まずは、木村氏の血筋は出雲神話から始まる「神(じん)」氏一族とも言われているし、木の国•紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるようだ。



 
















まずは、広島県竹原市新庄町の安芸木村城を訪れてみたい。木村城跡は、国道432号線沿いにある和賀神社(小早川神社)の裏山に築かれていて、本丸、二の丸、三の丸にあたる曲輪のほか何段かの曲輪があり、見事な石組井戸が残っている。
木村神社は、船越八幡神社の境内地に鎮座する。
祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと





木村姓の家紋は、近江源氏佐々木氏流は隅立て一つ目や隅立て四つ目などの目結、藤原
北家秀郷流は左三つ巴や五三桐、他に違い矢、松皮菱、木文字など。大姓のベストテンに入っているのは、青森(四位)、茨城(六位)、滋賀(八位)、京都(八位)である。

200912190102.jpg










第19回/残念ながら清水さんのルーツに清水次郎長は現れない

200912260101.jpg清水[志水・冷泉・冷水・寒水・志美津・施水・滋水・瀏・真水]
残念ながら清水さんのルーツに清水次郎長は現れない
いつもの居酒屋で他の客と清水姓のルーツの話などをしていたとき、居酒屋の女将が「清水という苗字で一番有名なのは、きっと“清水次郎長”よね」と、口を挟んできた。

私は女将に向かって首を横に振りながら、「次郎長の本名は“山本長五郎”というんだよ。清水湊に生まれて、次郎八という男の養子となったため、次郎八の家の長五郎、“次郎長”と呼ばれるようになったんだ」と言う。
女将は、ヘエそうなのという顔付で私にビールを注いだ。私は、「それに清水市はいまでは静岡市になっているから、いまならさしずめ静岡の次郎長とでもいう名前になっていたかもしれないね」とつけ加えるのであった。
「そんな名前じゃとても侠客の中の侠客というわけにはいかないわね」と女将はため息をつくのであった。


まあしかし、次郎長が侠客の中の侠客と言うならば、同じ清水姓のなかに、元の居城は備中清水城(岡山県総社市井手)で、後に備中高松城主(岡山市北区)となった、武士の中の武士、清水宗治(むねはる)がいる。
現在公園として整備された備中高松城跡に出掛けてみよう──天正十年(1582)、秀吉は三木城、鳥取城を落とし、その勢いで宗治の籠もる高松城へと軍を進めた。軍師黒田孝高の助言で秀吉は、城の周りに土手を築いてぐるりと囲み、そこへ足守川の水を引き込むという、いわゆる「水攻め」を行ったのであった。

 ついに、湖に浮かぶ島のようになってしまった高松城の城主清水宗治は、船を城内から漕ぎ出すと船上で酒を飲み交わし、舞を謡った後に自刃する。城兵の命と引き替えに自らの命を絶ったのである。数え年45歳であった。後に秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
香川県高松市由良町の清水神社

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 現在の清水姓の分布は北関東から甲信越地方に多く、山梨(大姓四位)、群馬(六位)、長野(六位)、富山((八位)がベストテンに入っている。
 家紋は、九曜、丸に二つ引両、向う山桜、下り藤に水文字、鷹の羽、笹、八重桜、三つ柏、井桁、五七桐、丸に片喰(かたばみ)など。



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