温故知新とは恩顧知真でもあるだろうと、ふと思います。
昨日と今日は荷の整理と備蓄した食材の点検をして、使い切るものと未だ保存できるものなどに分けて急がしい週末( 終末にかける象 )となりました。
乗用車も持たず、生活様式は家具が数個あれば間に合いますが、長年の間に増えた衣服と薬草と雑貨と細々の物が押し入れ2つ分にはなります。
全て高級品ではありませんが、高級品を格安で購入したのが割合と多いのです。
物持ちだ...今の時勢で有難い事だ...と、心から恩顧知心の私でした。
太陽が新生したという情報が信じられるのは、日々の問題は相変わらずにしても、心が重力を減じたような、そんな感覚があるからなのです。
昔なら、心は重く、だが体はまめによく動き...という具合でしたが、今は年令のせいもあってなのか体が飛ぶように素早く動くことを望まないで、外を歩く祭に起こる特別な時以外はスロースロー、しかし歩く速さはなかなかのものです。
別の変化としては___口が悪い人に対して、今はむしろ無視ができずに、心で印をきるような瞬発力で言い返しハネカエシしてしまうことです。
良い悪いでは分別したくはない<侵害への抵抗>という革命だと考えています。
もう好きなようにはさせないぞ!
美味しいところだけを利用するが、自分の好みに反応しない、自分を賛美しない、自分の気にいるタイミングで行動しない、尊敬しない等を相手から感じとり見れば
...瞬発で攻撃したり嫌みを言う毒吐きの蛇は、同じような感情のレベルで溺れてくれない相手/特に好きに操りたい相手には暴力的になる一面を持つのです。
どこかで聞いたような話ですね。どこかの国の背後で操る人々の個性と似ていますか?
2013年の春分を過ぎて改善するか?___それを見てみたいと思っています。
反極では、私自身が試されてきたと信じています。
そういうエゴ者の良い点を見たら誉めて、そして良い点をちゃんとエゴ%から引いて見てあげられるかどうか。
1つの自我出しを知ったからといって全否定しないこと。してしまうなら終わり。つまり、こちらも自我で向かい合ったことになるからです。
これは、こちら側の試練ですね。
かくのごとく、頭も気持ちも乱されるような相手から、実は、こちらが成長させて頂いてきたと...そう言うことが出来ます。
できるなら、「こちらも」であって、相手も何かしら成長があるのは理想的な交流でしょう。
世間に<も>ありがちなこと。一家に1人は厄介なのが生まれているらしい。
厄介にも様々ありですが、宇宙の真実は、案外_厄介な者こそが、周囲を進化させたり成長させたり、周囲の人を、物ではなく心へと向かい生かせ、目覚めさせて神化するために生まれた_と、
私はそう思い込んでみたいと思いました。ですから、お疲れ様でした、ご苦労様でした、と言って差し上げます。
清濁合わせ呑む器は瓶。古代なら、訓読みでは、みか•もたい。
以下の通りでしょう。
甕の読みと字義
甕の音読みは「オウ・ウ、ヨウ・ユ」で、訓では「かめ」のほかに「みか・もたい」と読みます。ですから、「おおがめ」ではなく「おおみか」と読むのは、珍しいことですが、ルール違反ではありません。
「みか」と読むときは、水を入れる容器という意味のほかに、酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味がつけくわわります。
以下、志田諄一「大甕という地名について」(『日立史苑』第4号)によって、大甕の由来についてまとめてみます。
「甕」の使用例
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあります。
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとあります。
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、
また何らかの境界に埋められることもあったことが知られます。
大甕と神社
「常陸国風土記」や「播磨国風土記」には、山の峰に住む神と里に住む人との境界(山口・山本)に社(やしろ)が建てられた話がみられます。
大甕の地も、風の神山・真弓山へとつづく多賀山地の南端のふもとにあたります。まさに山口にあたるこの地に大甕神社があります。
なお、現在の南相馬市原町区に大甕があります。この大甕に延喜式内社に比定される日祭神社があります。この神社の由来は、日本武尊東征の際、平定を祈願してこの地に天照大御神を勧請したといい、
大甕という地名は、祈願の際に祭壇にささげられた酒をもった器にちなんだといわれています。
出会いを祈願の対象にするはずもないのですが、面白いのは、何かしら良い思いを持ち始めるのは祈願であるとも言えそうではありませんか。
それに、夫婦であるならベッドや布団の中は祭壇にささげると同じ位に神聖なのです。
夫婦でないなら、男女の違いなく、例えば一緒に食事するテーブルが祭壇とも言えそうです。
また、どんな人にでも、心の祭壇が常に内にあります。
心宮=神宮ですからね。 _ シングウとタイプすれば、神宮も出てきます。
清濁呑んで後は、合わさり発酵するならば上々です。
厳しさを自身に向けた発酵した器から注がれるものは___
相手を責めたり攻撃することなく、しかし時には方便や希望がもてる視点を語り、
与えられる物も与えて、口論もありで、互いの違いを認知はしながらでも、
互いに出会って良かった、生きていて良かったと思える共感と同意へと至れるもの___
そのようなアクエリアスのネクターという生命の水をこんこんと湧かせて注げるように成れる可能性が、誰にでもあります。
そして___
注げるようになるというのも、
手間ひまかかり、時には昼夜かまわず気持ちを向けてやらなければいけない相手がいるからなのです。
注げる器、大甕へと生らせて頂けるのです。
これが、私のような目覚めが遅かった凡人には、何度でも必要な経験でした。
そのたんびに痛い思いをしました。未だ続くかもしれません。
今、気になりどうしょうもなく心が引かれる人は2人います。
『ベストを尽くします。』
この意思を持つ事、これも祭壇を拝したということです。感謝です。
御先祖様、成長させて頂き ありがとうございます。
宇宙神様、宇宙の家族と仲間よ、ありがとうございます。
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